コロナ禍の中で part Ⅱ           教会員

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「お元気ですか?」とりあえずの挨拶の定型文、何気ない会話の始まり…だと思っていた。この一言がこんなに重く大切な言葉だったとは。昨年の今頃、コロナ騒動の火蓋が切って落とされたのだと、誰が想像しただろう。そして、まぁ一年も経てばいろいろ落ち着いて、泣く泣く延期した行事もできるだろうと考えていたことが、とんでもなく甘い考えであったと思い知るのである。

世界中の人がもれなく見舞われているコロナウィルスの恐れだが、そんな中で世の中のオンライン化は目覚ましく、その浸透ぶりに人間のたくましさを感じる。私自身、北関東連合の教会音楽委員会も、神学校の公開講座もその他諸々、zoomで参加している。最初はおっかなびっくりだった私が、今やそれなりに使える成長ぶりだ。

先日、その教会音楽の公開講座で大きな気づきが与えられた。今、飛沫感染防止のために讃美歌を歌うことについて様々な工夫がなされている。歌わずに奏楽を聴きながら歌詞を味わう、または司式者が歌詞を読む、讃美歌の節を減らす、小さな声又はハミングで、等々。教会に行くこともままならず、思い切り賛美できない寂しさを訴える声がある中で「コロナ禍における賛美」の講義では

・賛美は自分が楽しむため? ・賛美は声で歌うことだけ?

・歌う事が苦痛な人もいるのではないか? という視点が示された。

讃美歌は歌うことが大前提、歌って主を賛美することはみんなが求めるうれしい事と思っていた。しかし讃美歌の大前提は「神様を讃える」ことであって「私の満足」のためではないのだった。そして私の中に歌う事が苦痛な人への思い至りが全くなかったことに愕然とした。オンリーワンの個性は神様からの贈り物。だとしたら「賛美」一つとってもいろんな捧げ方があって良いのだと気づかされた。これは今まで「歌う」事が辛い人を置いてきぼりにしてきたということだ。

コロナ禍を肯定的には捉えられないけれど、変化を恐れずなんとか礼拝を捧げよう、神様を賛美しようと手探りでやってきた足跡と置いてきぼりの事柄に気づけたのは、これからの礼拝をより豊かにいろんな人と繋がっていく大切な一歩の種であり、この種の「良い管理人」になる使命が私たちにはある。

「神はこの歴史の流れをみこころのうちにおいておられるのである。(略)われわれにとっては生き方、処し方が問題である。」榎本保郎著『一日一章』より