コロナ捕囚の中で「生きよ」

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今年は、教会にとって「コロナ捕囚」を経験した。コロナの感染症に、恐れと不安を抱きながら、礼拝を捧げてきた。それは、イスラエルの民がバビロン捕囚で先の見えない苦難を経験したように、教会もコロナに囚われながら一年間を歩んできた。その中で、バビロン捕囚を経験した預言者エレミヤやエゼキエルの言葉にどれほど支えられ、励まされてきたことだろうか。改めて、神の言葉は生きていると感じる。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」エレミヤ29:11。捕囚という出来事は、イスラエルの人々にとっては災いとしか映らなかった。しかし、主が見ておられるのは計画の全体であった。それはイスラエルの将来と希望を与えるための計画であった。災いと見える出来事のただ中に置かれた時、私たちは将来に不安を抱く。そして将来を知りたいと願う。しかし、本当に大事なことは、将来を知ることではなく、主の備えておられる計画を知ることである。

捕囚という苦難な状況は、これからも続く。むしろ、苦難は増すかも知れない。しかし、それでも希望を持って生きることができる、と主は言われる。私たちは、この苦しみがもうすぐ終わる、と先が見えている時は耐えることは容易であろう。しかし、この苦しみがいつまで続くのか分からない時、本当に辛く耐え難くなる。

人は生きる意味を見出した時、生きる希望が湧いてくる。エレミヤが、バビロン捕囚の人たちに伝えたのは、この生きる意味である。イスラエルの民は、自分たちは神から見捨てられた、そんな人生に生きる意味があるのかと絶望の中にいた時、エレミヤは言う。いや、あなた方は決して神から見捨てられてはいない。神は、あなた方のために、確かな計画を持っておられる。それは、災いの計画ではなくて、平和の計画なのだ、将来と希望を与えられる計画なのだ、だから生きよ、と言われる。

「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主は言われる。」エゼキエル18:32。コロナ禍が続く中で、将来を悲観して「死にたい」と自らの命を絶つ人が増えていると聞くと心が痛む。「だれの死をも喜ばない」と言われた主は、「立ち帰って、生きよ」とすべての人を招いておられる。主に立ち帰って、生きるなら、災いの計画ではなくて、平和の計画を、苦難の先に見い出すことができるだろう。