クリスチャンになりませんか?

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クリスチャンは立派な生き方をする人だと、錯覚している人が意外と多い。クリスチャンになると悪いことはできない、お酒もたばこも娯楽も止めなければならない、ないないづくしの禁欲的生活者のようなイメージを持つ。けれども、クリスチャンになるとは、聖人になることでも、禁欲的生活をすることでもない。むしろ自分の罪深さに気づき、悔い改めて生きることである。私たちの罪を赦すために、主がどれほど十字架で苦しまれたか、その苦しみに気づくことである。そして自分に対する主の愛がわかると、その愛に応えたいと思うようになる。つまりクリスチャンになるとは、主が愛されたように、主を愛し、人を愛する者へと変えられることである。

クリスチャンなろうとする時、果たして自分は信仰をもって歩み続けることができるだろうかと懸念する人もいるだろう。自らの弱さ、周りの人の無理解、クリスチャンとしてのまだ経験したことのない歩みを考えると、不安を抱くのは当然である。しかし、聖書は「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」使徒.言行録2:38と語る。ここには2つの約束がある。罪を悔い改めて、主が私の罪のために十字架に架かられたと信じてバプテスマを受けるならば、罪の赦しと賜物としての聖霊を受けることができる。罪の赦しは、完全である。神は主の十字架のゆえに、もはや私たちの罪を責めることはなさらない。全ての罪は赦されている。そして、聖霊が与えられる。この聖霊こそが、私たちがクリスチャンとして歩むための支えである。

聖霊は、私たちを助け、導いてくださる。“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈べきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ロ-マ8:26。クリスチャンとはいかなる人間かと問われたならば、「聖霊を内に宿している人」と言うことができる。そしてその全ての助けはどこに向かっているかと言えば、平和の君である主イエスに似たものに造り変えられるためである。クリスチャン(Christ-ian)とは、「キリストに従う人」という意味である。ですから「私はまだ教会に行って日も浅いし、聖書を十分に理解できないし、御言葉を行うことができないから、クリスチャンにはなれない。」とためらっていてはならない。罪を赦して頂きたいと願うなら、主を信じて、クリスチャンになることである。「聖霊の執り成し」の下でこそ、信仰生活は全うできるのである。