私たちにとって、主の十字架は語りやすいが、主の復活は語りにくいのではないか。それは「人間が復活するなんて非科学的で信じられない」と、拒絶する方が多いからである。かつて赤岩栄という牧師は、「復活などは実際に起こったことではない。それは弟子達の幻影にすぎない。大事なことは、復活の事実ではなく、その意味を読みとることだ」と言ったが、いつの時代にもそのような考えを持つ人がいる。
しかし、パウロはⅠコリント 15:3-4 で、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」と語っている。クリスチャンにとって、何よりも大切なことは、キリストの復活が事実であったと信じることである。キリストの復活は、それがなければキリスト教はなく、それを信じていなければクリスチャンではないと言ってよい。
パウロは、復活の事実がなければ、宣べ伝えていることは、それがどんなに立派で良いことであっても、中味のないものになる、私たちのキリストへの信仰がどんなに真面目で、真剣なものであっても、意味のないものになると語る。そればかりか、「キリストを神が復活させた」というメッセージは、もし、それが作り話であるなら、神に逆らう証言となり、神を冒とくすることになると語る。
実際、パウロがかつてクリスチャンを迫害したのは、復活してもいないイエスが復活したと言い、イエスをキリストだと言っているクリスチャンの偽りの罪を見逃せなかったからである。しかし、パウロは後に復活したキリストに出会い、罪を犯していたのは、キリストの復活を否定していた自分の方だということに気付いた。
もし、キリストの復活が事実でなければ、復活の希望を抱く私たちの「信仰はむなしく」「すべての人の中で最も惨めな者」になるだろう。しかし、キリストは復活され、今も生きておられるので、主を信じる私たちは、キリストの復活によって死にさえも打ち勝つ人生の勝利者となり、永遠の命を約束された最も希望に満ちた者になれる。56歳で召された鈴木正久牧師は死の直前、「自分は今、死に向かっているのではない、キリスト・イエスの日に向かっているのだ。それが本当に輝かしい明日なのだ」と語られた。私たちもキリストの復活を信じることによって、「輝かしい明日」を迎えたい。