キリストの平和         教会員

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例年八月の平和月間は、争いのない世界が実現しますように、また、隣人と平和に共存していくことができますように、皆で祈りを合わせる時と思ってきた。今年はコロナウイルス感染拡大に歯止めがかからず、世界が先の見えない不安におびえている。改めて平和とは何か問われている。

聖書には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」エフェソ2:14と書かれている。平和の土台はキリストである。どういう事だろうか。自分の信仰生活を振り返ってみる。信仰生活の初めにおいては罪を悔い改め、キリストを救い主と信じ、神の赦しを実感した。年月を経て、「キリストの十字架わが罪のためなり」の思いが軽く弱くなってきたのではないのか、日々悔い改め、十字架を仰ぐことが形式化しているのではないのか示された。天地の創り主なる神の存在も、時として自分の願いを叶えてもらう小さな存在にしているのではと思わされた。神は全知全能であり、歴史を貫きその御業をなしたもうお方、私たちはその御業のために用いていただく存在である。神の偉大さ、清さ、十字架の死を通して、神と罪人たる私たちを和解させてくださったキリスト。その十字架の広さ深さを思わずにはいられない。

教会は、キリストをかしらとするキリストのからだである。私たち一人ひとりはその肢体である。十字架の恵みを安価な軽いものにしてはいけない。キリストを土台として平和を祈る者でありたい。教会はこの世のただ中にあって世に属さず、クリスチャンもこの世のただ中に遣わされているが、キリストのものとされている。

私は礼拝には出ています、祈禱会にも出ています、毎朝聖書を読み祈っています、それだけでは自己満足の信仰生活ではないのか問われているように思う。仕事も退職し、今、さまざまに問い直す機会が与えられ、感謝である。そういう中で改めてアシュラムの働きにすごさを覚えている。御言葉への聴従、御言葉に聴き従うこと。自己中心的な信仰から神中心の信仰生活へと転換をしていきたい。主に希望をおき、キリストの平和の実現のため祈っていきたい。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

エレミヤ書29章11節