イエスこそ私たちの主

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アシュラムでは、「イエスは主なり」という挨拶をよく交わすが、この挨拶は、アシュラムの専売特許ではない。初代教会では、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」フィリピ2:11と言って、「イエスは主である」と呼んだ。又、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9と言って、救いにあずかるために最低限必要な信仰告白の内容が、「イエスは主である」であった。

「イエスは主である」とは、私たちとってどんな意味があるか。第一に、私たちに希望と慰めを与える。『ハイデルベルク信仰問答』「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」の問いに対して、その答えとして、わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。とあった。人間の最大の問題は、聖書によると、罪と死である。罪は死という結果を招き、誰も死から逃れられない。しかし、主は天と地の一切の権能を持っておられるので、罪も死も私たちを神の愛から引き裂いて滅ぼすことはできない。生きている時も死ぬ時も、主は私たちを捉え、私たちを何ものにも渡されない。

第二に、私たちは主イエス以外の何ものをも主とせず、それに従わない。イエスを主と告白することは、私たちの身も魂も主のものであり、主イエス以外に私の主人はいないという意味である。しかし、この世には、私たちを支配し、私たちの主になろうとするものがいっぱいあるのではないか。気をつけないと、仕事や趣味や娯楽が方が主になり、いつの間にか時間も体も心も奪われ、信仰生活が二の次になることが起こり得る。「イエスは主である」とは、「イエスこそ主である」という告白であって、「イエスも主である」という告白では決してない。「イエスは主なり イエスは主なり 仕えまつらん ひたすら 主なるイエスに」新生讃美歌287を、わが信仰告白として賛美したい。

第三に、「イエスが主である」との告白が、教会の正しいあり方を教える。『使徒信条』では、「私の」主イエスではなく、「我らの」主イエスと語る。私たち一人一人は主を信じても、意見の相違が起って、誤解を生んだり、対立することがある。しかし、主イエスに対する信仰を失わない限り、トラブルが起きても、修復できる。一番大切なことは、「イエスこそ私たちの主である」という信仰である。これさえあれば、少々のことがあっても、教会は立ち続ける。「我らの主イエス・キリストを信ず」を大事にしたい。