「今から後、幸いな時も災いに遭う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、敬い、仕えて、共に生涯を送ることを約束しますか。」40年前の今日、私たち夫婦はこの誓約に、「はい、約束します」と答えて、結婚した。もし、牧師が疑って、三度同じことを聞いたとしたら、すぐに「はい、約束します」と答えただろうか?
復活の主がペトロに三度、「あなたはわたしを愛しているか。」と尋ねた。その度に、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えた。三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」ヨハネ21:17とある。「悲しくなった」とは、情けなくなったということであろう。主が十字架につけられる前夜、「あなたのためなら命を捨てます。」と言っていたペトロが、自分の身の危険を感じて、鶏が鳴くまでに三度主のことを知らないといった。その事を思い出して、身のすくむような思いから「悲しくなった」のである。
結婚もそうだし、クリスチャンになることもそうだと思う。その時には、真剣な思いで誠実に約束したことでも、揺らいでしまうことがある。様々なことが起こる現実の中で、かつて自分が約束した言葉がその力を失い、約束した内容が見失われることがある。ただ惰性で夫婦として生活し、ただ惰性で信仰生活を送ってしまうことがあるのではないか。そうした時にこそ、「主よ、あなたは何もかもご存知です。」と受け止め、すべてを主にお任せし、主のもとに立ち帰ることこそ、信仰生活の要である。
主は三度も、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられた。ペトロが「羊飼い」にふさわしい才能の持ち主であったからではない。むしろ、迷える羊のようなペトロ自身が、主のような羊飼いになることを命じられた。私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、お互いを配慮し合い、支え合って生きていくことが求められている。「主の羊」である私たちが、「主の羊」である隣人と共に生きること、そして、お互いに「主の羊を飼う者」として責任を担い合う、「相互牧会者」でありたい。
このように、お互いを生かし合い、お互いに責任を負うという隣人愛のゆえに、クリスチャンの生き方は、ただ自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」というものではなく、「行きたくないところへ連れて行かれる。」ヨハネ21:18という課題も負わされている。しかしそれは、「強いられた恩寵(恵み)」である。主は私たちにも、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられている。そのために、「強いられた恩寵」をあえて頂きたい。