「門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」は、一休和尚の歌で、「正月は、めでたいものとされているが、門松を飾る度に、一つずつ年を取り、死に近づくので、死への旅の一里塚のようなものだ」という意味である。
だからこそ、この機会に自分の死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備することが、主を証する者として大切ではないか。特に、死を前提とする話は、危篤状態になってからでは遅い。健常な時なら、落ち着いて話すことができる。家族も本人の希望を聴くことができ、いざという時、慌てなくて済む。最近は「終活」が当たり前になってきており、家族と教会に自分の希望を伝えておくと、よい最期の時を迎えることができるだろう。自分の葬儀は、こういう内容で行ってほしいと「葬儀に関する希望」を教会に提出しておくと、それに沿って行うことができる。
葬儀は、「死の現実を受容させる」という意義を持っている。死別は生前の関係性によるが、自分も一緒に死にたいと思うほど悲しい出来事であり、死の現実を受容することが難しい場合がある。特に配偶者や子どもの死は精神的に最も辛い。しかし、臨終の祈りに始まり、納棺式、葬儀式、火葬式に至る一連の式、更にそれに続く納骨式や記念会などを通して、遺された者は次第に死別の現実を受容していくことになる。一連の式の中で繰り返し神の愛と慰めが語られ、沢山の祈りが捧げられるので、葬儀は単なるお別れではなく、心を癒す営みとなる。その意味で葬儀とそれに伴う様々な儀式は、それ自体が「喪の仕事」でもあり、「悲嘆のケア」にもなりうる。
更に葬儀は、そこに集う「家族や親族、友人や知人の出会いの場」となる。それは普段は会う機会のない人も葬儀という場を通して顔を合わせることになる。一人の死が、会うことのない人を集める。葬儀の場において安否を問い、今まで生かされてきたことを感謝し、お互いの幸せを願う気持ちが起こされる。仮に会いたくないような事情があって疎遠になっていたとしても、葬儀が人と人との関係を回復させる契機となる。もし葬儀がそういう結果をもたらすとしたら、人の死は遺された者に貴重な贈り物をすることになる。又、葬儀は参列者に「天国への希望」を抱かせる時になる。その魂が天国へ導かれていると知るならば、悲しみの中にありつつも遺された者の心の奥深くには不思議な喜びが与えられる。葬儀は、神礼拝であると共に、故人が主催する伝道集会とも言える。葬儀を通して、信仰に導かれる方も多い。