最近、「ウィズ(with)コロナ」という言葉を聞く。それは、新型コロナウイルスと共存していくということである。ワクチンが開発されていない新種のウイルスは、一旦は感染が収まっても、第二波、第三波という新たな感染の波となって襲ってくると予測される。だから、コロナウイルスの終息は長期戦になるので、私たちの生活や仕事の有り様を今までとは大きく変えていく「新しい生活様式」を身につける必要がある。新型コロナウイルスに対して、「闘い」ではなく、「共生」が求められている。
そもそも新型コロナウイルスは、一説によればコウモリを自然宿主とすると言われるが、コウモリとは平和に共存していたはずである。人間が原生林を切り開き、野生動物と家畜や人間が接触する中で、ウイルスは伝播し、人獣共通感染症が広がっていった。そのように考えれば、人間が地球全体に開発の手を広げ、過度の都市化、集住化を進めることで、自ら災厄を招いたといえる。そして、この災厄によって、人間が生きるために本当に必要なものや、本来的な生き方が明確になっていくような気がする。14世紀にヨーロッパで大流行したペストが封建社会の旧秩序の解体を加速したように、コロナ感染症が、社会変革の先駆けとなることを期待する。
私たちはこれらのことから何を読み取るべきなのか。聖書は「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」ローマ8:22と語る。被造物とは自然界全体のことで、動物も植物もこの地上に存在する全てものが今、共にうめいている。しかし、そのうめきは「産みの苦しみ」であると語る。産みの苦しみというのは、妊婦が新しい生命を産み出す時に経験する陣痛のことである。だから、この苦しみは無意味な苦しみではない。全く新しい世界を産み出すための苦しみを今経験しているわけで、それ故に、大きな希望がある。
私たちは、被造物の「うめき」が「産みの苦しみ」であることを知らされた者として、見えざる感染症に怯えるのではなく、見えざる神を畏れる生き方をしたい。折しも来週は、「ペンテコステ」を迎える。復活後、天に昇られた主が、50日目に聖霊として弟子たちの所に降り、怯えていた弟子たちがその聖霊の力に満たされて、全世界に出て行って、大胆に福音を語ったのである。今、世界は異常気象や疫病や災害が次々と起こり、終末が近づいていると言えるが、主を信じる者には、主が再臨して、朽ちない霊の体に復活するという大きな希望が与えられていることを伝えたい。