教会の花壇は花盛りであるが、「ど根性ペチュニア」が道行く人の目を楽しませている。それは花壇の中に咲いているペチュニアではなく、花壇の下のコンクリートの裂け目から咲いているペチュニアである。前年に咲いたペチュニアの種が、わずかな隙間に落ちて、花を咲かせるのである。わずかな土と水しかないのに、花壇で咲くペチュニアよりも丈夫で長持ちしている姿を見ると、信仰の世界も似ていると思った。
先週のアシュラムで、ヨハネの黙示録を静聴したが、苦難の後に主の恵みがやってくることを学んだ。迫害や殉教という苦難に耐えることによって、信仰が鍛えられ、信仰の豊かな実を結ぶのである。だからパウロは、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」ローマ5:3-5と語った。
苦難それ自体は、決して喜ばしいものではない。誰でも避けて通りたい。生活苦も老苦も病苦も死苦もなければ、どんなに楽だろうかと思うことがある。しかし、それらの苦難がなければ、必死で祈ることも、神により頼むこともせす、自分の好き勝手に生きるのではないか。星野富弘さんが、「わたしはあなたのみおしえを喜んでいます。苦しみにあったことは、わたしにとって、しあわせでした。詩篇119」とボケの花に添えて描いておられたが、苦難がなければ、聖書を手にすることもなかったであろう。
「苦しみにあったことは、わたしにとって、しあわせでした。」とは、普通の人ならとても言える言葉ではない。特に、星野さんのように、手足をも動かせず、車いす生活を余儀なくされた人にとって、「苦しみにあったことは、わたしにとって、不幸でした。」と言うことはできても、「しあわせでした」などとは言えないだろう。しかし、その苦難の中で、聖書を手にした時、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」との主の招きの言葉を、「すでにおれのために、その言葉を用意してくれていたんじゃないかなあ」と思ったそうだ。ここに、「しあわせでした」と言える根拠がある。
「こういう自分でも生きていていいんだな。生きて立派なことをする、いい仕事をする。そういうことが人間にとっていちばん大事なことではなくて、とにかくこの世に生を受けて生き続ける、それを神さまに感謝して生きる、そんことが非常に大事なことなんだ。生きていること自体が、不思議で有り難いことなんだからと思えるようになりました。」この星野さんの言葉に、ど根性信仰に生きることが美しい花を咲かせる人生であると教えられた。