昨年の今頃、発生した新型コロナウィルス感染症は、私たちの予想を超えて終息の傾向が見られないどころか、更に拡大を見せている。第三波が11月頃から訪れ、各地で入院もできないという医療崩壊も起きている。ワクチンが行き渡るのは、まだまだ先のことであるので、コロナが終息するまでには、長い年月がかかるであろう。
その中で、教会がなすべきことはないか。パウロは、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ローマ12:12と語る。まず「希望をもって喜ぶ」とは、どういうことか。パウロは、相手が苦難の中にあることを知っていた。その中で、喜ぶことなどできないことも知っていた。それでもなお「喜びなさい」という。信仰者に与えられている喜びは、幸福であるが故の喜びではない。現在目に見える喜びがあるから喜ぶのではなくて、将来、希望における喜びが与えられることを見つめる喜びである。「神の栄光にあずかる希望」ローマ5:2、これこそが信仰者の喜びの根拠である。つまり、あなたは主によって、その希望が与えられていることを喜びなさい、という。
パウロにとっての苦難とは、迫害を意味した。私たちの人生には、貧困・病・人間関係・仕事など多くの苦難がある。特に、コロナ禍において、それらの苦難が顕著に表れてきている。では、この苦難をどう耐え忍んだらよいのか。「耐え忍ぶ」という言葉は、「あるものの下に留まる」という意味である。苦しみの下にしっかりと留まって、そこで生きることである。それは、その苦しみが神から与えられたものとして受け止めて歩むということでもある。神は最終的には私たちを全ての苦しみから救い出し、復活と永遠の命を与えてくださる。そのことを信じて生きるならば、私たちは人生の様々な苦難においても、そこに留まって、忍耐強く生きることができるであろう。
希望において喜びつつ、苦難を忍耐しつつ生きる歩みは、主に祈りつつ、つまり主との交わりに生きるところにこそ与えられる。それ故に、「たゆまず祈る」ことが大事である。「たゆまず」とは「継続する」という意味である。私たちは、祈っても現状は変らない、だから祈っても仕方がない、と諦めてしまうことはないか。しかしそれこそがまさに、信仰における希望と喜び、そしてそれに基づく忍耐を失ってしまう原因である。なぜなら祈りを失うことによって、私たちは神との交わりを失うからである。「たゆまず祈る」ためには、私たちの心が、いつでも、何をしている時にも、神に向かって開かれ、神の御前で、神と共に生きることを意識することから始まるのである。