子どもが生まれた時,誰に一番最初に伝えたいか。きっと大事な人に伝えたいと思う。主イエスがお生まれになった時、一番最初に伝えられた大事な人とは、羊飼いたちであった。羊飼いという職業は、当時の社会の最も底辺、一番下に位置する職業であったと言われている。誰もやりたがらない仕事である。しかし、その仕事に従事しなければならなかった。毎日家畜を自ら飼っているようでありながら、振り回されて逆に、家畜に飼われているような毎日を送っていたのかもしれない。
その羊飼いたちに、天使は告げた。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ルカ2:10-11。自分の存在意義を見出すことができず、暗闇で横たわるしかなかったような者に、この喜びを一番最初に伝えたかったのである。
この喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、どうしたか。「『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」ルカ2:15。天使は、この羊飼いたちに、「さあ、ベツレヘムに行きなさい」と命じたのではない。「ベツレヘムに行けば、救い主のお生まれになる、そのしるしを見ることができるであろう。」そのことを告げただけなのである。それにもかかわらず、彼らの心は、救い主を見ようとの熱望が燃え上がってきた。「虚しいと思えるようなこの生活を、変えて頂くことのできるお方がお生まれになった。」そう思ったら、いてもたってもいられなくなったのである。
現代のベツレヘムは、どこにあるのか。主はどこにおられるのか。現代のベツレヘム、それは教会である。羊飼いたちは、「さあ、教会へ行こう」と叫んだといってもよい。仕事が一段落してから向かったのではない。仕事の最中に立ち上がった。朝になってから向かったのではない。夜の内に出かけた。「時間ができたら、問題が解決したら、教会に行きたい」という方がおられるが、羊飼いはそうしなかった。自分を救う主が来てくださった。そのお方を見たかった。ここに仕事に勝るものがある。疲れや睡眠に勝るものがある。「主が知らせてくださったその出来事を見」たかったのである。
私たちは今日、クリスマスの出来事を見るために礼拝を捧げている。主の誕生は、私たちが日々体験している罪と悲惨の現実のただ中で起った。クリスマスの出来事は、私たちにとって、「主が知らせてくださった大きな喜びの出来事」である。私たちは、神をあがめ、賛美しながら、それぞれの生活へと、喜びをもって帰っていきたい。