コロナ感染症の対応で、礼拝の持ち方は大きく変わった。賛美が少なくなった、主の晩餐式が御言葉だけになった、礼拝時間も短かくなった、挨拶も控えめになった、座席数を少なくしたので礼拝を二回行うようになった、マスク着用で声を出しづらくなった、礼拝後の食事を共にすることがなくなった。本来の伸び伸びした礼拝からするなら、寂しさやもどかしさを感じるが、礼拝の本質的なことは変わってはいない。
東日本大震災後の最中、礼拝を捧げてきた、ある牧師の言葉が印象的であった。「互いの命を喜び合うこと。弱さを大切にすること。支え合って生きること。共に祈ること。私たちが大切にし、目指してきた、“いつも通り”のことを、より確かに、より真摯に、より深く、多くの人たちと共になしていくことを確かめ合うことができた礼拝でした。それから、被災支援の働きがあり、お葬式があり、多くの悲しみの中を教会の歩みは“いつも通りに”重ねています。教会の歩みはいつの時代にも、様々な困難の中を“いつも通りに”聖書のメッセージに導かれながら、命を守り育て、命を共に生き、命とお別れする時を重ねてきたのです。時に涙し、時に笑いながら、私たちの命に働かれる神の御業を発見し続けてきたのです。」
震災前も後も、コロナ感染症の前も今も、礼拝の本質的なことは変わることはない。大事なことは、どんなに困難と思える時でも、「いつも通り」のことが行えるかどうかである。上尾教会は、緊急事態宣言の中でも、「いつも通り」の礼拝を、休止したり、中止することはなかった。むしろ、そのような時にこそ、命の言葉に与る大切さを感じて、礼拝を粛々と捧げてきた。それによって、一人一人の信仰が強められ、教会の存在意義と使命を再確認させられた。神が私たちを礼拝へ招いてくださるのだから、自分の都合を優先させることなく、これからも「いつも通り」の礼拝を捧げていきたい。
「神の愛への応答として私たちが行う礼拝とは何でしょう。それは神をほめたたえることであり、その憐れみと恵みに感謝することです。またそれは神が創造された世界を愛し、神が創造された隣人を愛することです。私たちが毎週、礼拝の中で行っていること、感謝の祈り、賛美の歌、執り成しの祈り、神への捧げもの、祝福を受けること、そして祝福を隣人と共に分かち合うこと、そのためにこの世に派遣されること・・・。これらすべては礼拝の中に常に備わっているものです。“いつも通り”の礼拝の中に、キリスト教の信仰、キリスト者の生き方の本質が込められています。私たちはそうしたことを礼拝の中で、また日々の生活の中で、“いつも通り”に行うのです。」『今、礼拝を考える』(越川弘英著)