中世のキリスト教会は、2~4月の「受難節(レント)」の時期には、キリストの十字架上での苦しみを偲び、断食したり、自分の罪を悔い改めたり、身を慎んで過ごすように心がける季節として守られてきた。しかし、今年の受難節は、新型コロナウイルスにより、世界中が大変な受難を受けている。世界中が、今まで経験したことのない大きな危機に直面する中で、私たちをお創りになり、愛してやまない神は、私たちに何を語り、どう行動するよう求めておられるのか。この時、主から頂く、「信仰」とは、「教会」とは何なのか。なぜ私たちは「主日礼拝」に、「祈祷会」に集うのか。それぞれが御言葉に深く聴き、場所は離れていても祈りを共に捧げていきたい。
この時、教会は、ひたすら祈ることが求められている。新型コロナウイルスに罹患し、命を脅かされている方々の癒しを、懸命に治療に励んでおられる医療関係者の働きを、このウイルス拡散が抑えられ、この病の恐れから解き放たれる日が来ることを、そして安心して礼拝が捧げられる日が来ることを、共に祈ろう。そして、闇の中を歩む私たちを照らすために来てくださった主を見上げて共に歩んでいこう。
今日からの「受難週」、主はどのような一週間を過ごされたのか、その足取りを辿り、自らの生き方を顧みたい。この日曜日、主がエルサレムに入られた日である。ご自分の死に場所、最期の時を知って、なお進んで行かれた主の姿は、どのようなものであったのか。御言葉によれば、そのみ顔はしっかりとエルサレムに向けられていたとある。揺るぎはなかった。それに比べて、私たちは弟子たちと同じように、揺れ動く地にあって、恐れや不安にさいなまれ、信仰までも萎縮してしまう弱さを感じているのではないか。様々な情報に、心が打ちひしがれ、復活の主を信じていながら、主にすべてをお委ねすることができない。そのような私たちが、この受難週を通して主を見上げ、死から勝利された主の復活の日を、喜びをもって迎えたい。
水曜日の祈祷会では、最後の晩餐の再現をし、主の十字架の血潮をしっかり心に刻みたいと思う。復活の主が、死を恐れる弟子たちに現れた時、「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:26と言われた。主の平和(シャローム)に与った弟子たちは、永遠の命が与えられた喜びに溢れて、福音のために死をいとわず殉教していくのである。すべてのことを主にお委ねしていきたいものである。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです。」Ⅰペトロ5:7