残念ながら、キリスト教が多数派を占める国では「正戦論」がまかり通っている。「正戦論」とは「正義」のための戦争を認める立場を言う。旧約聖書でも、イスラエルの12部族がモーセに率いられて出エジプトをして、パレスチナの土地に定着して以来、バビロン捕囚から再びパレスチナの土地に帰還するまで、神によって導かれた聖なる戦争「聖戦」を認め、ユダヤ教やイスラム教も「聖戦」の根拠とした。
それに対して「非戦論」というのは、あらゆる場合に戦争を認めない立場を指す。新約聖書では、隣人愛と徹底した赦しを説いた主イエスは、復讐することを禁じ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」マタイ26:52と武力での解決を禁じた。主の非暴力・絶対的平和主義の教えと実践は、インド独立の父マハトマ・ガンジーや、アメリカ黒人解放運動のリーダー、マルティン・ルーサー・キング牧師にも受け継がれている。
このような「非戦論」の立場のキリスト教が「正戦論」に転換したのは、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝がキリスト教に回心したことに由来する。313年にコンスタンティヌス帝は、それまでローマ皇帝を神として仰がないことが理由で迫害されてきたキリスト教を国教にする道を開くミラノ勅令を出した。それ以来、キリスト教は国を守る宗教となり、正義のために戦争をする「正戦論」の立場が鮮明になった。
そのような歴史の流れの中で、再洗礼派のメノナイト派やクウェーカー派などの少数派のキリスト者は、新約聖書の「非戦論」の立場を貫く。日本はキリスト教が国教になった歴史がなく、キリスト教が支配的宗教になったことがないので、教会では「非戦論」が多数を占めている。しかし、第二次世界大戦時には日本の軍国主義政策に絡め取られていった苦い経験がある。その中で極めて少数だが、戦時中も「非戦論」を貫いた人々がいた。武祐一郎先生の著書の中でも、投獄覚悟で「日本の戦争は間違っている」と唱えて、要職から追放された無教会の先達のことが記されていた。
戦争はある日突然起こる。戦争が始まってからでは、反対することは難しい。沖縄平和運動センターの山城博治さんが、「今ならまだ止められる」とデモ隊の最前列で叫んでいたが、戦争が始まって真っ先に攻撃されるのは、自衛隊のミサイル基地のある南西諸島であり、米軍の基地のある沖縄本島である。日本政府が5年間で43兆円の防衛費(いや軍事費)をつぎ込もうとしていることに、主の教えに生きようとする私たちは、はっきり「NO!」と言って、平和を創り出すために声をあげたい。