「迷い悩みも そのままに」主を信じる

Home / 週報巻頭言 / 「迷い悩みも そのままに」主を信じる

クリスチャンになることに、ためらう人はいないか。「私は、聖書を十分に理解していないし、立派な行いは出来ていないし、信仰心もないし」と、そのような理由を挙げる方がいる。しかし、クリスチャンなるには、資格や資質、立派な行いは必要ではない。ただ、「イエス・キリストは私の救い主です」と信じる決心をして、自分の罪の贖い主として受け入れるだけで、だれでもクリスチャンになれる。

遠藤周作が『私にとって神とは』の中で、「信仰を、日本では一般に、100%の確信というふうに考えがちです。そうじゃなくて、前にも述べたように、ベルナノスの言う90%疑って10%希望を持つというのが宗教的人生であり、人生そのものでもあると思うんです。人間というものは、そんなに強かったら宗教は要らないと思います。」と述べているように、聖書を十分に理解できなくても、クリスチャンとして生きていくことに何ら問題はない。「信仰は90%の疑いと10%の希望」という言葉もあるように、信仰には疑いがついてまわるものである。

主の弟子のトマスも、主の復活を徹底的に疑った。主が復活されたという報告に対して、トマスは「自分の指や手を主の手の釘後や刺された脇腹に入れてみなければ、主が復活したことなど絶対信じない」と疑ってかかった。主から信じることを勧められても、不信を抱いてしまう人間の現実が現れているような気がする。「私は神を信じます」という時の主体が人間である限り、疑いのない神への信仰は起こらないのではないか。疑いと信じることとの間を私たちはいつも揺れていると言える。

「主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。」詩編139:4-5。神は私たちのすべてを分かっていてくださり、前からも後ろからも囲んでくださっているという。疑いの晴れない人間のすべてを神が抱えてくださっているのだから、安心して疑いを抱きつつ、神と共に日々歩んでいけばよいのである。「信仰」は「進行形」である。主を信じて一歩ずつ歩んでいくうちに、疑いも晴れていくのである。新生讃美歌461に、「迷い悩みも そのままに たずさえ来よと 憐れみて カルバリの主は カルバリの主は憐れみて 待ちたもう」とあるが、「迷い悩み」が解決してから主を信じるのではなく、それではいつまで経っても信じられないので、「迷い悩みも そのままに」主を信じることが求められている。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネ20:27