「ビジョン」に記された「上尾教会50周年の恵み」を読んで、たくさんの主の恵みに気づかされた。その中で、皆さんが『聖書日課』に親しんでくださっていることは嬉しい。「毎朝聖書を『聖書日課』にそって読むこと。祈ること。」「寝る前には、家族で聖書の朗読が日課となっていました。目をこすりながら、家族で一緒に聖書を朗読したことも、今では大切な習慣だったと感じています。」「家で聖書を読みますと、教えてくださること、考えさせられることがたくさん書いてあります。」「最高の恵みは、キリストの体としての教会の部分として召し集められた一人一人の成長が、『親子聖書日課』によって育まれていることではないかと思います。」「『聖書日課』これこそ上尾教会の宝である。」
『聖書日課』を通して、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」詩編119:105となり、「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。」エレミヤ15:16となっている。日々、御言葉に慰められ、励まされ、導かれ、問いかけられ、生き生きとした信仰が養われている。トマス・ア・ケンピスは『キリストに倣いて』の中で、「聖書の中に求めるべきことは、真理であって雄弁ではない。…ただ純粋な真理への愛にひかれて読むべきである。誰がこれを語るかを問うことなく、何が語られるかに心をとめなさい。」と記したが、主イエスならどう生きられるか、その答えを求めながら御言葉を聴くことが大切である。すると、必ず、最善の道が開かれる。
瞬きの詩人と言われた水野源三さんは、「朝静かに この一日の御恵みを祈りおれば わが心にあふれくる 主イエスにあるやすらぎ」と歌った。重い障害を抱え、自分一人では、体を動かすことができず、横になれば横になったまま、座れば座ったままの一日。しかし、そのような日々の中で、毎朝、御言葉を聴き、祈り、主と親しく交わった。「わが心にあふれくる 主イエスにあるやすらぎ」は、健康で順風満帆に進んでいるからではない。ただ御言葉を日々聴いて、主に従うところから生まれる。
「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」哀歌3:-22-23。その主の慈しみ、主の憐れみを朝ごとに経験するためには、朝めざめた時に、まず御言葉に聴き、祈ることである。すると、この主の恵みが注がれる。「アシュラム」では、「朝の15分があなたを変える!」を合言葉にしているが、本当に変えられる。『聖書日課』を用いて、「主イエスにあるやすらぎ」に与ろう。
聖書朝の祈りのときを持ちましょう。