「復元」ではなく、「復活」がある

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本日、主の復活をお祝いするイースターを迎えた。2千年前、主は十字架にかけられて死なれ、墓に葬られたが、三日目の日曜日の朝に復活された。主の復活は、私たちに死への勝利をもたらした。イースターは、日本の社会ではまだまだ馴染みがないが、教会では最も大切な日である。もし主の復活がなければ、私たちの信仰も、教会が存在することも、こうして毎週礼拝を捧げることもなかったであろう。

死は、すべての人にとって最大の敵である。今まで死に打ち勝った人は一人もいない。しかし、ここに唯一の例外がある。主はただ一人、復活して、死の力を打ち破られた。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54〜55。死がすべてをのみ込んだのではない。そうではなくて、死は勝利にのみ込まれた。実に不思議な言葉である。死はすべてを取り去ってしまうではないか。死はどうすることもできない壁のように私たちの前に立ちはだかっている。しかし聖書は「死は勝利にのみ込まれた」と語る。それは、死が主の復活の勝利にのみ込まれたからである。だから目の前にどんな苦しみがあっても、必ず勝利することができる。

「復元師」という仕事があるのを聞いた。事故や災害などで傷ついた遺体を生前の面影に近く復元し、本人の顔にかつての笑顔を戻すことを通して、遺族の悲しみを少しでも和らげ、「愛する人の死」を受け入れやすくし、穏やかな別れが出来るようにするという仕事である。復元された面影を見て、遺族は、悲しい中でもそこに亡くした人を一時だけでも「取り戻せた」という思いから、ある種の満足感を味わうそうだ。

私は、「亡くなった方の面影を復元する」というこの話を聞いた時、「私は、もっと素晴らしいことを知っている。もっと素晴らしい希望を、私たちはいただいている」と思った。その希望とは、「復元」ではなく、「復活」である。一時だけ復元されるのではなく、永遠に復活させられる。「復元」の場合は、仮に100%復元されたとしても、また朽ちてしまう。けれど、「復活」の場合は、永遠に朽ちることはない。もはや「失ったり、死んだり、朽ち果てたり」することはない。単に「元の姿に戻る」のではなく、「以前の命と体」よりも遥かに優れた、「朽ちない、霊の体、永遠の命」に変えられる。それが、主が自らの「復活」で示してくださった「復活の希望」である。私たちは「主の復活」を知らないと、「今の命と、今の体」に拘ってしまい、死に絶望する。復活の主を信じることによって、「朽ちない、霊の体、永遠の命」に変えていただこうではないか。