「信仰の継承」と「クリスチャンホームの形成」

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この2つのテーマについて、本日の伝道懇談会で学び合い、話し合えることを大いに期待している。どちらのテーマにも明快な答えがあるわけではないだろう。「これでいいのかしら」と、主に問いつつ、苦闘しながら、主の導きを求めているのが現状であろう。その思いを分か合い、祈り合うことが伝道懇談会の意義でもある。

「子供は私の手をとっくに離れたので、信仰の継承など今さら無理だ」と思う方がいるかもしれない。しかし、信仰の継承は、必ずしも「親から子へ」ということではない。「子から親へ」とその逆もある。私の母が夫に先立たれ、不安な日々を送っていた時、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイ11:28との主の言葉を紹介して、「主にすがるなら、平安が与えられるよ」と伝えた。すると、今まで元気な時には、私の話を聞こうともしなかった母が、80歳の時に主を信じて、バプテスマの恵みに与った。だから、幾つになっても、諦めてはならない。

家族は、私たちの信仰の姿勢をよく見ている。何を大切にし、何を信じているのか、言葉ではなく、行いを見ている。「私たちの中で殆どの者は、まず最初に信仰について考え抜いた上でキリストに対する理性的決断を下してキリスト者になったわけではなく、むしろただ年長者たちを見て育つ中で自然と信仰に導かれたのであって、そのようにして私たちは自分がもっとも重要とみなす価値の殆どを受け継いできた。」ウイリアム・ウィルモン。罪多き者であっても、「自分もあのようになりたい」と、家族から慕われる誠実な信仰生活を送りたい。間違っても、「あのようになりたくない」と言われてはならない。

「信仰の継承」「クリスチャンホームの形成」は、家庭として取り組むだけではなく、教会として取り組むべきことがある。神の家族の一員として、その人に接していくことである。義也の言葉に、「僕は、牧師の家庭に生まれ、五人兄弟の三番目ということもあって、いろいろと気を配る立場にいました。弟であり、兄である自分。でも、教会では、皆秋山義也とし接してくれて、時に怒られ、時に心配され、時に褒められ、本当に愛されて育ってきました。だから、僕は教会が大好きだし、これからも神様に“こんな僕ですが、これからも一生教会に行きますから、どうぞよろしく”と言わせていただきます。」とあった。

思春期には、受験、恋愛・結婚、就職など悩みは尽きないだろう。又、結婚後も夫婦関係や親子関係の悩みなどがあり、真剣に聞いて、共に祈ってくれる人がいたら、どれほど支えられるだろうか。教会の交わりと祈りこそ、欠かせないものである。