イエス・キリストは、無罪で十字架にかけられ刑死した。人の罪を贖うためであった。茨の冠を被らされ、鞭で打たれた。カルバリの丘まで十字架を背負い、何度も転びながらたどり着く。着衣をはがされ、両手両足を釘で打たれ、十字架につけられた。しかし、イエスは、ののしる彼らに無抵抗で、おまけに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、憎むべき相手に執り成しの祈りをした。私たちの罪を背負い、贖うために自ら犠牲となられた。
神様は、人を神様の形に似せて創られたが、私たちの内面は、弱く、同じ過ちを繰り返す。経済問題、民族・宗教・文化の違いなどから戦争、紛争や内乱が起こる。イエスの十字架は、私たちに多くのことを示している。
当時中学2年生であった伯父に海軍の赤紙がきた。体格がよかった伯父は難なく体力テストに合格をしていた。伯父の母親であった私の祖母は、その赤紙を持って血相を変え、学校の担任に相談に走った。海軍は、志願制で自分の意志を示すことができた。担任は、祖母に「弾になるだけがお国のためになる訳ではない。武器を作るために勉強をしたいと答えなさい。」とアドバイスをした。伯父は、ちょうどエリートの軍の士官の面接に当たり、覚悟を決めてその旨を告げて、戦争に行かずに済んだ。その後は、大阪大空襲に遭い、焼け野が原になった堺を逃げ惑い、奇跡的に一家の命は守られたが、友人、知人をたくさん失った。伯父は、現在90歳である。結局、武器の製造のための人生はなかった。しかし、当時の戦争の様子、その時分、新聞に書かれていたこと、実際の世界や日本の事情などを私たちに伝えてくれる。ゼロ戦や、戦艦、電車の模型を作ってリビングに飾っている。最近はオスプレイも手掛けた。もしや、その気になったら、武器の製造もできたのかもしれない。伯父は、模型を見せながら、悲惨な当時の話をする。
伯父は、戦争を経験し、その守られた命を用いて、次の代に戦争の悲惨さを語り継ぐ。私は、それを聞き、平和を求め、祈る。神様は、様々なお役目を一人ひとりにお与えになる。私も、伯父がくれた、ボトルシップの戦艦を見ながら、子どもや孫に戦争の悲惨さを伝えて行こうと思う。
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカによる福音書23:34