週報巻頭言

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主に望みをおく人は新たな力を得る

主に望みをおく人は新たな力を得る

「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」イザヤ40:31。今年度のこの聖句を、噛みしめている方も多いことだろう。私たちの人生には、病気や心労のために、弱ることや疲れることが何と多いことか。先週のアシュラムの時、一人の方が証をしてくださった。癌にかかり、医師からは「もはや手術ができない状態です」と言われて落ち込んでいた時、アシュラムの仲間が色紙に慰めの言葉を贈ってくださった。その言葉に励まされ、手術をしてくださる医師にもめぐり逢い、関西の病院にまで行って手術を受けられた。「私はこんなに元気になりました。神様に委ねるとはどういうことか学びました。生かされた命を神様のために用いたいです。」その言葉に、私たちもどれほど励まされたことだろうか。

外的条件が整った人が「新たな力を得る」のではない。そうではなくて、「主に望みをおく人」が疲れから解放され、「新たな力を得る」のである。私たちは、常に何かができる自分の方に目を向けがちだが、「望みをおく」ことの中心は、自分の無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことである。できるとか、できないとかの人間的な枠を超えて、神の御業に期待することである。今、「主に望みをおく人」の心に、主ご自身が入って来てくださり、死に打ち勝たれた主の力が働くのである。

私たちの造り主に望みをおく信仰以外に、弱り果てた心を再び強くし、命を得る道はない。私たちが今、疲れ果てているならば、命の根源である神への信頼を失っていないかどうか点検してみる必要がある。私たちは、いずれ死に至る。そういう意味において、私たちは徐々に弱り果てていく存在である。それなのになぜ、「鷲のように翼を張って上る」ことができるのか。それは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネ11:25と主が言われたように、主を信じる者に、「永遠の命」が与えられたからである。だから、「死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。」詩118:17という主から託された、尊い、喜ばしい使命が私たちには与えられている。

神の恵みを語り伝える時、人は生きている喜びを最も感じることができる。この喜びは、この世からは決して得ることができない喜びである。私たちは主から新たな力を得て、「主に望みをおく私は、鷲のように強く生きることができる。」と主を証し、行く先々で、主の御業を語ることができる。主に望みをおく、「信仰の翼」があれば、たとえ困難な状況にあったとしても、そこから飛び立つことができるのである。

みんな「おんなじいのち」

「ずっとこの生活を続けたいから、もう(放火は)繰り返さない。こんな気持ちになったのは初めて」小柄な男性が米寿の祝いにもらった色紙と花のポットを自室で誇らしげに見せてくれた。北九州市に住む福田九右衛門さん(88)は軽度の知的障害があり、前科11犯。だが、刑務所を最後に出所した2016年から3年以上、穏やかに地域生活を営んでいる。福田さんを支えるのは同市のNPO法人「抱樸(ほうぼく)」約30年間ホームレス支援の活動をしてきた牧師の奥田知志理事長(56)が設立した。法人本部の「抱樸館」の中にある「ついのすみか」と呼ばれる天涯孤独な人のための施設が、福田さんの住まいだ。

福田さんは74歳だった05年12月末、刑務所を出所。行くあてもなく、万引をして警察に保護されたり、自治体の福祉事務所に連れていかれたりした。だがどの公的機関もその場限りの対応に終始し、福田さんに居場所を提供することはなかった。出所から8日後の06年1月上旬。寒さをしのいでいたJR下関駅の木造駅舎を追い出されると、未明にライターで火を付けた旅行パンフレットを駅舎脇の段ボールに投げ入れ、駅舎を焼失させた。逮捕後、動機について「刑務所に戻りたかった」と供述。累犯障害者の象徴的な事件だった。

事件の4日前、福田さんが立ち寄った北九州市でホームレス支援の新年の炊き出しをしていた奥田理事長は「あの時に巡り合っていれば…」と、痛恨の思いで逮捕後から面会や手紙のやりとりを重ねた。08年3月の山口地裁判決は懲役10年。奥田理事長は「社会の中で生き、死んでいくのがあなたの責任。待ってるよ」と伝えた。福岡県の「地域生活定着支援センター」の運営も受託するなど環境を整え、約束通り、仮出所した福田さんの身元引受人になった。「それまで刑務所に迎えに来てくれた人はいなかった。うれしかった」福田さんは今も当時の感激を口にする。出所後には下関駅を訪れ、謝罪。一時はふらっと行方をくらますなど不安定な時期もあったが、今はすっかり落ち着き、奥田理事長と一緒に、経験を語る講演活動もしている。

抱樸のモットーは「おんなじいのち」属性や条件で人を排除しない。成育歴や疾病などは解決できなくても、トラブルや困り事に家族のように寄り添う。仲間が亡くなったときは、すぐそばの東八幡教会で見送る。看取りまで関わり続けるのだ。

「全国新聞ネットニュース」より

目標を目指してひたすら走る

2020年は、東京オリンピックの年である。アスリートたちがどんな走りをするのか楽しみであるが、神は私たちの信仰生活にも、走ることを求めている。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」Ⅱテモテ4:7-8「決められた道」とは、自分にとって、必ずしも喜ばしい道ではない、できれば逃げたいと思う道かもしれない。しかしそれが「決められた道」であるのなら、私たちは迷ったりしないで、走りとおしたい。

「決められた道を走りとおす」ために何が必要か。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」フィリピ3:13-14。 目標(ゴール)に向かって一目散に走ることである。「ウサギとカメ」の話は、そのことを教えている。カメより遥かに早いウサギは、ゴールを見ないでカメを見て油断し、その結果、カメに追い越された。しかし、カメは足は遅くとも、ウサギの動向には惑わされず、目標だけを見て歩み続けたので、ウサギより速くゴールインできた。競争意識ではなく、共生意識をもって、目標を目指してひたすら走ること」の大切さをここに見る。

但し、目標が目の前に見えないこともある。だからこそ、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」ヘブライ12:1-2という生き方が必要である。「重荷」「罪」「かなぐり捨て」なければ、とても重くて走れない。私たちは、自分の努力で重荷や罪を捨てることはできない。十字架上で私たちの重荷や罪を負ってくださった主を見つめることによって、捨てることができる。「罪」は私たちの信仰生活にも「絡みついて」来るので、「忍耐強く走り抜く」ことが求められている。主は私たちに信仰を与え、その信仰を完成させ、「義の栄冠」を与えてくださる。

私たちは、ペトロのように嵐や荒波の中で、主から目を離して溺れてしまうようなことがあるのではないか。しかし、主だけを見つめて生きることが、困難な中でも前進することができる。主を見つめることは、目標を見つめて前へ進むことである。「イエスを見つめながら」この信仰の姿勢がいつも必要である。「すべての重荷やからみつく罪」「十字架の主イエス」に委ね、主を見つめたい。2020年も「前のものに全身を向けつつ」「イエスを見つめて」信仰生活を最後まで走り続けたいものである。

 

 

ひとりひとりが大切にされる礼拝

2019年は、上尾教会にとってどんな年であっただろうか。会堂20周年を迎え、この会堂で、今日まで豊かな礼拝が捧げられ、祈りが捧げられたことを、主に感謝することができた。年を重ねるにつれ、誰でも安心して礼拝を捧げられるように、様々な取り組みも生まれてきた。歩行器や車椅子が必要になってきた方が増えてきたので、椅子の並びも工夫するようになってきた。又、送迎と共に、乗り降りの介助にも心を配るようになってきた。様々なサポートが必要になってきた方へは、ご家族と連携し、ラインで情報を共有し、チームで動けるような体制になってきた。

福音書の中に、一人の病人が4人の友人の協力を得て、屋根からベットごとつり降ろされて主の下へ連れて行かれ、主の救いに与ったことが記されているが、教会でも病人がベットごと礼拝が捧げられたら、どれほど大きな慰めと力になるだろうか。病室で出張晩餐式を行った時、一同で主の十字架の恵みに感謝の祈りを捧げることができた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイ11:28。この御言葉を必要としている人と一緒に礼拝が捧げられるように、私たちも心を配っていきたい。相互牧会とは、魂への配慮(ケア)をすることである。

一緒に礼拝を捧げていた教会員を天国に見送ることが多くなってきたが、天国でも直接主とお会いして礼拝を捧げていることであろう。主は私たちに、この地上で最期の日まで礼拝を捧げることを願っている。そのために、日々体が衰えていく私たちは、信仰の友の支えを必要としている。助け合って、天国を目指していきたい。

クリスマスに、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」ルカ2:10と聞いた私たちは、誰と一緒に礼拝を捧げるかが問われている。「私一人」でも「教会員と共に」でもなく、神に造られた「民全体」すべての人々と礼拝を捧げることが求められている。ホームレス支援をしている奥田知志先生が『いつか笑える日が来る』という新刊の中で、“そんな出会いの中で、一つの「信仰告白」というべき「教会標語」が与えられました。「神様はどうでもいい命をお創りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するために、東八幡キリスト教会はひとりを大切にする教会になる。」あらゆる命、あらゆる出来事、そして、すべての人生には意味がある。私たちの目には遠回りだ、無駄だと思える道も、神様が備えた道だと信じていこう、と呼びかけたのでした。毎週、この言葉を司会者は宣言し、礼拝が始まります。”と語ったように、ひとりひとりが大切にされる礼拝を目指したい。

私たちの間に宿られた神

「おひとりさま」傾向がどんどん加速するに従って、クリぼっち(クリスマスをひとりで過ごす)という言葉もいつしか消えて、クリぼっちが日常的なものになったが、そこには、寂しさや辛さがあるのではないか。ある人が、クリスマスにこのように祈った。「ひとりでいるのはつらいことです。この世の中に、ひとりぼっちで、苦しみと罪と死の前に、ひとりぼっちで立つことは、主よ、つらいことです。」すると、主から応えが返ってきた。「子よ、何を言う、君はひとりぼっちではない。私が君と一緒にいるではないか。」

クリスマスのメッセージは、まさに「君はひとりぼっちではない。私が君と一緒にいる」ということである。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ヨハネ1:14 「言」である主イエスが、私たちと同じ体を持つ一人の人間になられた。空腹を覚え、疲れ、悲しみや嘆きも体験された。その主イエスが、憐みの心をもって、私たちの中で生活し、住まわれた。これがクリスマスの出来事である。クリスマスの1つの意味は、神が見える神となった。神は本来、目に見えない「永遠、普遍、無限の神」であるが、クリスマスの出来事において、神は見える神となられた。それが主イエスである。

第2に、人となられた主イエスにおいて、神が具体的に私たちの傍らにいる神となってくださった。これが「宿る」という言葉の最も大切な意味である。主イエスは、「インマヌエル」と呼ばれている。それは、「神は我々と共におられる」マタイ1:23という意味である。旧約時代、神は幕屋や神殿という形で、ご自身の存在を人々に現してきた。旧約でも神は、「インマヌエル」の神であった。しかし、終わりの時に、神の独り子の主イエスが人となられた。ここで「インマヌエル」の意味が大きく転換した。

ある聖書学者は、クリスマスは神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だと言う。「丁度、母親が火事で火を浴びている子どもの上に身を投げ出すように、大波に襲われた子のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ」と記す。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。主イエスこそ、私たち一人ひとりを愛し、身を投げ出して、「あなたの神」「私の神」になってくださった。孤独を味わう時、病む時、つらさと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、「共にいてくださる神」となられた。主イエスは私たちの傍

らにいる神となられた。これが「宿る」ということである。クリスマスを迎える私たちの心にも主イエスを宿らせたい。もはやひとりであっても、ひとりぼっちではない。

平和を実現する人々は、幸いである マタイ5:9

中村哲医師は、この主の言葉をまさに体現した方である。アフガニスタンにおける長きに亘る活動は、医療支援事業、井戸事業、食料配給事業、大規模灌漑事業と多岐にわたり、延べ100万人にも及ぶ現地の人々の命を救ってきた。それは多くの困難に遭いながらも、現地の方々の信頼を得た上で愛情と忍耐を持って活動してこられた尊い働きの成果である。これまで現地の人々にどれほど多くの喜びと希望を与えてきたことか。あらためてその働きの大きさと尊さを思わずにはいられない。

中村医師は講演する度にこう話していた。「100の診療所よりも1本の用水路が必要だ」「飢えは薬では治せない」「薬があっても水と食糧がなければ命を救えない」「必要なのは武器ではなく、命の水です」安心して、家族や仲間と暮らしができる社会が戦争を無くせる」「寒風の中で震え、飢えているものに必要なのは弾丸ではありません。温かい食べ物と温かい慰めです」「平和とは戦争以上の力であります。戦争以上の忍耐と努力が要ります」

私たちは中村医師の死を無駄にしてはならないと思う。活動する場所は違っても、各自が置かれた場所でどのように平和の実現を成し得るかを考えていきたい。中村医師の目指した「真に平和な世界」の実現に向かって、小さな歩みを続けていきたい。

連盟が加藤誠理事長名で中村哲医師 追悼文」を表明したので、下記に紹介したい。

「ペシャワール会現地代表である中村哲さんの訃報に接し、心から哀悼の意を表します。中村哲さんはその若き日、福岡の西南学院中学校在学中に聖書を通してイエス・キリストに出会い、香住ケ丘バプテスト教会においてバプテスマを受け、クリスチャンとしての歩みを始められました。35年前に医師としてペシャワールに赴任されて以来、神を信じ、人を信じ、いかなる時にも現地の人々と危険と労苦を共にして取り組まれた働きは、『天、共に在り』の確かな信仰に裏打ちされたものでした。また、むさぼりと敵意があふれ、毎日おびただしい悲しみを生み出している世界にあって、中村哲さんの存在と働きは、あの最初のクリスマスに輝いた星のごとく、私たちにいつもイエス・キリストの平和の道を指し示し導くものでした。

私たちは今、その大きな星を失った悲しみに打ちのめされています。しかしながら、イエス・キリストの十字架が人間の罪の暗闇に呑み込まれて終わることなく、復活の命の出来事に変えられて世界中の人々に希望を与えていったように、中村哲さんがご自身の存在すべてを賭けて取り組まれた尊い働きは、平和の源である神のもとで必ずや人々の心を照らし続ける希望に変えられ受け継がれていくことを信じるものです。」(抜粋)

希望をつなぐ平和構築      教会員

12月1日(日)夜、浦和教会で開かれた「佐々木和之(国際ミッション・ボランティア)・ルワンダ帰国報告会」に秋山先生ご夫妻と参加しました。

ルワンダで25年前、1994年ジェノサイド(フツによるツチの大虐殺)が起こりました。そのような中、REACH(リーチ)というキリスト教NGOが「加害者と被害者の癒やしと和解」に取り組むプログラムを始めました。

佐々木和之先生は2005年、14年前からその働きに参与して、「和解と癒やしのセミナー」「償いの家造り」「養豚」「花畑」プロジェクトなど、またウムチョ・ニャンザ(ニャンザ地方の光)を興し、被害者と加害者の妻などが協働で手工芸を出来る場作りなどしながら、「和解」に関わって来られました。また、現地へ日本からのツアー(虐殺現場見学も含む)の世話などもして来られました。

これらのプログラムにつく前に、ルワンダの姿に衝撃を受けた佐々木先生は、紛争予防や紛争後の和解を修復できるよう、「修復的正義」について思いを寄せ、「平和学」をアメリカ・イギリスで学び、「博士号」を取得しました。そしてルワンダで教育の場を作り、歴史を記憶し平和を創造する次世代の人々の育成のためにと、2011年、PIASS(プロテスタント社会科学大学)の平和・紛争研究科の立ち上げに関わり、周辺諸国からも留学生を受け入れて、平和を作るためにジェノサイド以降に生まれた若い世代を育てています。また日本からの留学生も学ぶようになり、そしてPIASSの学生も東京外語大学に2名づつ、皆さんの支援で1年間留学しています。今回の報告会にもコンゴー出身のヘレンさん、ルワンダのオクターブさん、その他、日本から行っていた留学生、卒業して平和活動で働いている方々、その他の卒業生もいて、交流する姿に感動しました。

とはいえ、奇跡の復興といわれたルワンダの政情はカガメ大統領政権下で反対する政治家への惨殺もあり、自由が制限されています。その状況に、佐々木先生は心が沈む時もありますが、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」エレミヤ 2911という御言葉に力を与えられているとのことです。私も、主があちこちに用意されている隠れている小さな「希望」を探して、平和に繋げていきたいと心が膨らみました。報告会副題「希望をつなぐ平和構築」の通りに・・

平和の君である主よ、来てください

今日からアドベントを迎えた。アドベントとは、ラテン語で「到来する」という意味である。救い主イエス・キリストの到来を待ち望むことがアドベントの意味である。救い主が来られたのは、私たちを罪から救い出すためである。罪の赦しという恵みを与えるために、主は私たちの罪の只中に来られ、私たちの罪と戦ってくださる。私たちを滅ぼすためではなく、私たちを生かし、平和を与えるためであった。

主ご自身が平和をもたらすために戦われる。それは剣や槍といった武力によってではない。「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。」ゼカリヤ9:10と預言されたように、救い主は武力によってではなく、非暴力によって平和をもたらされる。主がエルサレムに入場された時、乗られたのは馬ではなく、ロバの子であった。ロバは戦いのためではなく、農耕のために使用される家畜で、それは平和を象徴している。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して 鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」イザヤ2:4。救い主の到来は、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするためであった。鋤と鎌は、農耕用の道具である。「もはや戦うことを学ばない」とは、戦争を放棄することである。

ローマ教皇が広島平和記念公園での演説の中で、「武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、一層の犠牲者と廃虚を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼り続けながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にあり得ません。それに平和は単に戦争がないことでもなく、絶えず建設されるべきものです。」と語ったが、それは平和の主がもたらしてくれるものである。

そのために、私たちは救い主を心にお迎えしたい。主は私たちの心を耕して平和を与えてくださる。平和は、一人で立ち向かっていくことでも、また武力という目に見える力に頼ることでもなく、平和の光をもたらしてくださる救い主と共に生きることである。「平和の君である主よ、来てください。私たちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!」との祈りを、私たちも捧げていきたい。

 

世界バプテスト祈祷週間を迎えて

世界バプテスト祈祷週間は、アメリカ南部バプテストのロティ・ムーン宣教師を記念して始められた。彼女は1873年、33歳の時から70歳で亡くなるまでの37年間、中国での福音宣教に尽力を注いだ。彼女は「中国の人々の救いのために祈ってほしい、中国の人々の暮らしのために献金してほしい、中国に更なる宣教師を送ってほしい。」との願いを南部バプテストの女性たちに伝え、それに応えるかたちで、「ロティ・ムーン・クリスマス献金」の活動がなされた。その信仰を受け継ぎ、1931年に、日本バプテスト女性連合の前身である婦人会同盟によって世界バプテスト祈祷週間が開始され、その後もバプテストの女性たちの中心的活動として継承されてきた。

女性連合は今年度、目標献金額を4500万円とし、私たち上尾教会の女性会は20万円の献金目標額を掲げ、個別献金と年2回の惣菜バザー、常設のバザーをし、その収益を捧げている。11月末から12月始めにかけてのこの一週間は、私たちの目が世界に広げられる時でもある。

幾多の困難に出会いながらも世界各地で宣教に励んでおられる方々がいる。現在、インドネシア派遣宣教師として野口日宇満・佳奈夫妻、カンボジア派遣宣教師として嶋田和幸・薫夫妻、シンガポール国際日本語教会に伊藤世里江牧師、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之・恵夫妻が働いている。またその働きを直接的に支えるスタッフの方々がおられる。それらの働きを支えるために、私たちの祈りと献金が求められている。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15。この主の言葉をまともに聴いた弟子たちがいたからこそ、また宣教師たちがいたからこそ、福音が私たちの所にまで伝えられ、私たちは主の救いに与ることができた。「宣べ伝る人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝ることができよう。」ローマ10:14-15と語られるように、いつの時代も「宣べ伝る人」「遣わされる人」が必要である。そのために、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」1コリント9:23と語ったパウロのように、福音のために私たちも自分にできることを喜んで行っていきたい。私たちも日々の生活の中で、福音を宣べ伝え、世界宣教の働きを覚えて祈りと献金を捧げていきたい。それによって私たちも世界宣教につながることができるのである。

 

幼子こそ真っ先に招かれるクリスマス

今月29日に、「0歳から3歳のクリスマス会」を行うが、クリスマスのメッセージは、幼子とその母親に真っ先に伝えられるべきものであると思う。聖書には、生まれたばかりのイエスを殺そうとする「殺意」や「悲しみ」や「恐れ」が語られている。イエスがお生まになったことを聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」マタイ2:3とある。イエスの誕生を喜ばないどころか不安を感じた。この不安がやがて恐ろしい出来事を引き起こすことになる。ヘロデが自分の地位を脅かす可能性のある幼子を抹殺するために、ベツレヘムに兵士たちを送り、2歳以下の男の子を探してすべて殺させた。イエスはその前にエジプトに逃れて無事であったが、ベツレヘムでは子供を殺された母親の嘆きの声で満ちていた。
イエスが生まれた時代は、とても恐ろしい時代ではないか。しかし、自分の思いのために子供たちを殺したのは、旧約聖書に見られるように、ヘロデが初めてではない。またヘロデの後も繰り返し行われてきた。ナチス時代のドイツ人は、ユダヤ人の子供たちを忌まわしいものとして殺した。日本人も戦時中は中国や朝鮮の子供たちを殺し、アメリカ人もベトナムやイラクとの戦争で子供たちを殺した。日常に目を向ければ、私たちはこの日本で毎年20万人(実際は100万人とも言われる)の子供たちを人工中絶という形で殺している。望まない妊娠をした時、大半の親は、胎内の子を中絶して問題を解決しようとする。自分の地位が奪われるかも知れないとの不安からベツレヘムの子供たちを殺したヘロデと、自分の安定した生活を守るために胎内の子を殺す私たちと、どこが違うのか。全く同じではないか。
ヘロデが闇の中にいたように、私たちも闇の中にいる。救い主が来られることを信じない者には、闇がさらに深くなり、不安は増す。これが私たちの現実ではないか。そんな私たちのために、神の御子は生まれ、苦しみ、死に、甦ってくださった。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」エレミヤ31:16-17。私たちが自分の手で涙を拭っても拭っても、また目から涙が流れ出る。しかし、悲惨な歴史に生きる私たちの未来に希望がある。神の独り子イエス・キリストが、歴史の終わりに再び帰って来てくださり、主を信じる者に永遠の命を与えてくださるからである。