週報巻頭言

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希望をつなぐ平和構築      教会員

12月1日(日)夜、浦和教会で開かれた「佐々木和之(国際ミッション・ボランティア)・ルワンダ帰国報告会」に秋山先生ご夫妻と参加しました。

ルワンダで25年前、1994年ジェノサイド(フツによるツチの大虐殺)が起こりました。そのような中、REACH(リーチ)というキリスト教NGOが「加害者と被害者の癒やしと和解」に取り組むプログラムを始めました。

佐々木和之先生は2005年、14年前からその働きに参与して、「和解と癒やしのセミナー」「償いの家造り」「養豚」「花畑」プロジェクトなど、またウムチョ・ニャンザ(ニャンザ地方の光)を興し、被害者と加害者の妻などが協働で手工芸を出来る場作りなどしながら、「和解」に関わって来られました。また、現地へ日本からのツアー(虐殺現場見学も含む)の世話などもして来られました。

これらのプログラムにつく前に、ルワンダの姿に衝撃を受けた佐々木先生は、紛争予防や紛争後の和解を修復できるよう、「修復的正義」について思いを寄せ、「平和学」をアメリカ・イギリスで学び、「博士号」を取得しました。そしてルワンダで教育の場を作り、歴史を記憶し平和を創造する次世代の人々の育成のためにと、2011年、PIASS(プロテスタント社会科学大学)の平和・紛争研究科の立ち上げに関わり、周辺諸国からも留学生を受け入れて、平和を作るためにジェノサイド以降に生まれた若い世代を育てています。また日本からの留学生も学ぶようになり、そしてPIASSの学生も東京外語大学に2名づつ、皆さんの支援で1年間留学しています。今回の報告会にもコンゴー出身のヘレンさん、ルワンダのオクターブさん、その他、日本から行っていた留学生、卒業して平和活動で働いている方々、その他の卒業生もいて、交流する姿に感動しました。

とはいえ、奇跡の復興といわれたルワンダの政情はカガメ大統領政権下で反対する政治家への惨殺もあり、自由が制限されています。その状況に、佐々木先生は心が沈む時もありますが、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」エレミヤ 2911という御言葉に力を与えられているとのことです。私も、主があちこちに用意されている隠れている小さな「希望」を探して、平和に繋げていきたいと心が膨らみました。報告会副題「希望をつなぐ平和構築」の通りに・・

平和の君である主よ、来てください

今日からアドベントを迎えた。アドベントとは、ラテン語で「到来する」という意味である。救い主イエス・キリストの到来を待ち望むことがアドベントの意味である。救い主が来られたのは、私たちを罪から救い出すためである。罪の赦しという恵みを与えるために、主は私たちの罪の只中に来られ、私たちの罪と戦ってくださる。私たちを滅ぼすためではなく、私たちを生かし、平和を与えるためであった。

主ご自身が平和をもたらすために戦われる。それは剣や槍といった武力によってではない。「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。」ゼカリヤ9:10と預言されたように、救い主は武力によってではなく、非暴力によって平和をもたらされる。主がエルサレムに入場された時、乗られたのは馬ではなく、ロバの子であった。ロバは戦いのためではなく、農耕のために使用される家畜で、それは平和を象徴している。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して 鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」イザヤ2:4。救い主の到来は、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするためであった。鋤と鎌は、農耕用の道具である。「もはや戦うことを学ばない」とは、戦争を放棄することである。

ローマ教皇が広島平和記念公園での演説の中で、「武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、一層の犠牲者と廃虚を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼り続けながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にあり得ません。それに平和は単に戦争がないことでもなく、絶えず建設されるべきものです。」と語ったが、それは平和の主がもたらしてくれるものである。

そのために、私たちは救い主を心にお迎えしたい。主は私たちの心を耕して平和を与えてくださる。平和は、一人で立ち向かっていくことでも、また武力という目に見える力に頼ることでもなく、平和の光をもたらしてくださる救い主と共に生きることである。「平和の君である主よ、来てください。私たちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!」との祈りを、私たちも捧げていきたい。

 

世界バプテスト祈祷週間を迎えて

世界バプテスト祈祷週間は、アメリカ南部バプテストのロティ・ムーン宣教師を記念して始められた。彼女は1873年、33歳の時から70歳で亡くなるまでの37年間、中国での福音宣教に尽力を注いだ。彼女は「中国の人々の救いのために祈ってほしい、中国の人々の暮らしのために献金してほしい、中国に更なる宣教師を送ってほしい。」との願いを南部バプテストの女性たちに伝え、それに応えるかたちで、「ロティ・ムーン・クリスマス献金」の活動がなされた。その信仰を受け継ぎ、1931年に、日本バプテスト女性連合の前身である婦人会同盟によって世界バプテスト祈祷週間が開始され、その後もバプテストの女性たちの中心的活動として継承されてきた。

女性連合は今年度、目標献金額を4500万円とし、私たち上尾教会の女性会は20万円の献金目標額を掲げ、個別献金と年2回の惣菜バザー、常設のバザーをし、その収益を捧げている。11月末から12月始めにかけてのこの一週間は、私たちの目が世界に広げられる時でもある。

幾多の困難に出会いながらも世界各地で宣教に励んでおられる方々がいる。現在、インドネシア派遣宣教師として野口日宇満・佳奈夫妻、カンボジア派遣宣教師として嶋田和幸・薫夫妻、シンガポール国際日本語教会に伊藤世里江牧師、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之・恵夫妻が働いている。またその働きを直接的に支えるスタッフの方々がおられる。それらの働きを支えるために、私たちの祈りと献金が求められている。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15。この主の言葉をまともに聴いた弟子たちがいたからこそ、また宣教師たちがいたからこそ、福音が私たちの所にまで伝えられ、私たちは主の救いに与ることができた。「宣べ伝る人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝ることができよう。」ローマ10:14-15と語られるように、いつの時代も「宣べ伝る人」「遣わされる人」が必要である。そのために、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」1コリント9:23と語ったパウロのように、福音のために私たちも自分にできることを喜んで行っていきたい。私たちも日々の生活の中で、福音を宣べ伝え、世界宣教の働きを覚えて祈りと献金を捧げていきたい。それによって私たちも世界宣教につながることができるのである。

 

幼子こそ真っ先に招かれるクリスマス

今月29日に、「0歳から3歳のクリスマス会」を行うが、クリスマスのメッセージは、幼子とその母親に真っ先に伝えられるべきものであると思う。聖書には、生まれたばかりのイエスを殺そうとする「殺意」や「悲しみ」や「恐れ」が語られている。イエスがお生まになったことを聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」マタイ2:3とある。イエスの誕生を喜ばないどころか不安を感じた。この不安がやがて恐ろしい出来事を引き起こすことになる。ヘロデが自分の地位を脅かす可能性のある幼子を抹殺するために、ベツレヘムに兵士たちを送り、2歳以下の男の子を探してすべて殺させた。イエスはその前にエジプトに逃れて無事であったが、ベツレヘムでは子供を殺された母親の嘆きの声で満ちていた。
イエスが生まれた時代は、とても恐ろしい時代ではないか。しかし、自分の思いのために子供たちを殺したのは、旧約聖書に見られるように、ヘロデが初めてではない。またヘロデの後も繰り返し行われてきた。ナチス時代のドイツ人は、ユダヤ人の子供たちを忌まわしいものとして殺した。日本人も戦時中は中国や朝鮮の子供たちを殺し、アメリカ人もベトナムやイラクとの戦争で子供たちを殺した。日常に目を向ければ、私たちはこの日本で毎年20万人(実際は100万人とも言われる)の子供たちを人工中絶という形で殺している。望まない妊娠をした時、大半の親は、胎内の子を中絶して問題を解決しようとする。自分の地位が奪われるかも知れないとの不安からベツレヘムの子供たちを殺したヘロデと、自分の安定した生活を守るために胎内の子を殺す私たちと、どこが違うのか。全く同じではないか。
ヘロデが闇の中にいたように、私たちも闇の中にいる。救い主が来られることを信じない者には、闇がさらに深くなり、不安は増す。これが私たちの現実ではないか。そんな私たちのために、神の御子は生まれ、苦しみ、死に、甦ってくださった。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」エレミヤ31:16-17。私たちが自分の手で涙を拭っても拭っても、また目から涙が流れ出る。しかし、悲惨な歴史に生きる私たちの未来に希望がある。神の独り子イエス・キリストが、歴史の終わりに再び帰って来てくださり、主を信じる者に永遠の命を与えてくださるからである。

成長させてくださる神

本日、神様に子供たちを祝福していただく「子ども祝福式」を迎えた。子供たちが神を畏れ、隣人を愛し、謙遜で思いやりのある人として成長していくように、祈りをもって育てていきたい。それは、親の務めであると共に、教会の務めでもある。

子供の信仰を育てることは、とても難しい。親が信仰を持っていれば、子供も自動的に信仰を持つわけではない。幼い時は教会に来ていても、青年期になると教会から離れる人が多いからだ。それは、自覚的な信仰が育っていないからである。親が信仰を持っていれば、子供もある程度は信仰が分かってくる。そういう親と暮らしていれば、神を信じた気分になったりする。しかし、それは「親から借りて来た信仰」で、「その子自身の信仰」にはならない。いざという時には、何の役にも立たない。

子供たちが、自分の意志で神に向き合って、自分自身で神を信じる信仰を持って、神に祈り、神に頼っていけるように、育てることである。それでは、子供がそのように育っていくためには、どうしたらよいのか。「三つ子の魂百まで」で、幼い頃から御言葉を心に植え付けていくことが大切であるが、親自身が信仰を働かせて生きる姿を見せることである。そうすることによって、子供たちは、「生きて働く信仰」に触れる。生きて働く生の信仰を自分のすぐそばで、見て、感じて、体験していける。そうしたことは、他の所では体験できない。学校でも会社の中でも難しい。しかし、家庭や教会の中では、親の日々の姿を通して、子供はリアルに見て、感じて、体験していける。それは、子供にとって、何物にも代えがたい「人生の宝」となっていく。

私は子供たちから、「欠点だらけの親父だけど、福音のために生きている姿はよく分かる。」と言われたことがある。自分の親が、大人たちが、「神への信仰」をもって一生懸命に格闘している姿を見た時、子供たちは理屈抜きで「ああ、神様って本当におられるんだ」と知っていく。「神様は、心から頼りにできる方なんだ」と悟っていく。やがて、自分自身の信仰を働かせるようになる。又、自分のためにも、隣人のためにも、神のためにも、とても素晴らしい生き方をしていく人になっていく。そんな子供たちが、家庭や教会の中で育っていくように、子供たちの上に、又、親や大人たちの上に、神の憐れみ深い助けと力と知恵があるように、祈っていきたい。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」Ⅰコリント3:6-7

大きな業を成し遂げてくださる主

「主よ、わたしたちのために大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」詩編126:3。この御言葉は、私たちの教会の祈りとして度々捧げてきた。20年前の会堂建築の折、総工費は土地も入れて1億5千万円に達し、連盟からの5千万円の支援があったとしても、あとは自己資金で賄うことになった。それは40人にも満たない教会員にとっては、至難の業に思えた。どんなにソロバンを弾いても、資金が足りないのである。「信仰の冒険」ではなく、「信仰の暴走」だと受け止めても不思議ではなかった。会堂建築中も1千万円が足りず、第三次献金を募ることになった。その時に、この御言葉を毎週の礼拝で唱えて、祈りを捧げたのである。

もし、私たちが人間の力で会堂建築を成し遂げようとしたら、会堂は建たなかったであろう。しかし、会堂建築という大きな業を成し遂げてくださるのは主であると、この御言葉から勇気づけられ、恐れることなく第三次献金を捧げることができ、全ての必要が満たされたのである。その経験があったので、「牧師館取得」の時も、「主よ、わたしたちのために大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」と、この祈りをもって、実現することができ、喜び祝うことができたのである。

この御言葉に後には、「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」詩編127:1とある。私たちは上尾教会を建て上げるために、一生懸命、奉仕をし、捧げているが、実は教会を建て上げ、守ってくださるのは、「主御自身」であることを忘れてはならない。『教会の約束』でも、「わたしたちは、教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます。」と唱えている。

勿論、「主御自身が建ててくださる」「主御自身が守ってくださる」から、私たちは何もしなくてもよいということではない。教会を建て上げるために、「労苦」は必要である。ただ、主のみ旨がどこにあるのかを祈り求めながら、労苦することである。今日の教会は、従来の伝道のみという宣教観から脱皮して、より全人格的・包括的な宣教理解に立ち、地域に仕え、地域と共に生きる教会へとパラダイムシフトして行くことが、今求められている。」と指摘された。「地域と共に生きる教会」として、日頃から神の声を聴くと共に、隣人の声を聴いていきたい。そして、一人ひとりの魂の嘆きに対して、主よ、大きな救いの業を成し遂げてください。」との祈りをもって、労苦していきたい。

会堂を用いて、様々なことに取り組んでいきたい

「会堂は20年経ったのです」と地域に方に伝えると、「古さを全然感じさせないですね」と言われて嬉しくなった。旧会堂は外壁のペンキが剥げて、古さが目立っていたのに比べ、タイル張りの現会堂は色あせることなく、よい風情を醸し出している。四方から見える十字架の塔は、シンボリックな存在となっている。タクシーの運転手が、行く先を「教会」と聞いただけで、私たちの教会に連れて来られることが多い。「赤信号、十字架見上げて、教会へ」という方が、一人でも多く起こされることを願う。
上尾教会に来られた方からは、「会堂は中は、こんなに広いのですね」と驚かれることが多い。外見から見るよりもはるかに広いと感じるようだ。それは天井の高さに寄るところが大きいが、サイドルームの間仕切りを開くと、ワンルームになるからである。普通、建物には各部屋を仕切る廊下の部分があるが、上尾教会にはない。沢山の方と礼拝を捧げられるように、空間を広く取るために、徹底的に無駄な部分を省いた。もう少し押入れがあればと思えるほど、空間を広く取ることに拘った。その甲斐があってか、結婚式や葬儀式、コンサート等で150名位は対応できる。又、バリアフリーの面で、一階に全ての機能を配置したことがよかった。20年経って、歩行器や杖を使って移動される高齢者が増えてきた。段差や階段が一ヶ所でもあれば、不便である。二階の畳の部屋は、子供の分級やお泊り会に役立っている。
丁度、台風19号の時、牧師家は教会に避難した。昨年の台風の時、牧師館の屋根が飛ばされ、建物が揺れて、不安な一夜を過ごしたからである。教会は、全く揺れることもなく、台風の音も気にならないほどであった。会堂を建てる時に、大震災が起きても教会は最後まで建ち続けるようにと、地下25mの岩盤まで12本の杭を打った。その杭の上に会堂は建っているので、揺れを感じないのである。災害時の自主避難所として、教会員や地域の方にも利用していただける会堂である。
今後、会堂が益々用いられることを願っている。家庭にも社会にも自分の居場所が見つからず、心の拠り所を求めている人は多い。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイ11:28と言われた主は、そのような人々を教会へと招かれている。教会こそ、魂の安らぎの場所である。その魂の安らぎの場所として、一緒に礼拝を捧げ、一緒に祈りを捧げていきたい。又、平日も地域の方々の心の拠り所として、会堂を用いて、様々なことに取り組んでいきたい。

慰めの共同体としての教会

台風19号は日本各地に大きな被害をもたらしたが、上尾も例外ではない。市境にある荒川が海のように氾濫し、河川敷近くにある建物が浸水している様子を目の当たりして、改めて自然災害の恐ろしさを感じた。三井住宅に住む方から、「何かあった時には、上尾教会に避難させてほしい。」という声を伺ったので、「どうぞ、そのような時は、教会をご利用ください。」とお伝えした。この地域の避難所は、大石小学校であるが、ご高齢の方はそこまで避難するもの大変なので、すぐ近くにある私たちの教会に避難したいとのことである。

また、「泉のほとり」で「キリスト教式葬儀」についてご紹介したところ、「教会でも私の葬儀をしていただけるのですか。」と尋ねられたので、「はい、教会はどなたでも利用していただけますが、ご自分の希望を、はっきりと家族の方と教会へ伝えておいてくださることが大切ですね。」とお伝えした。

この地に会堂が建って20年、地域の方々が私たちの教会を頼りにしてくださっていることは嬉しいことである。上尾教会のミッションステートメントにも、「私たちは、神からいただいた恵みを活かして、神と人とに仕えます。」と掲げた。神からいただいた恵みとは、この会堂であり、教会の交わりである。会堂は、礼拝を捧げるためだけにあるのではない。「地域に開かれた教会」として、地域の人々の求めに応えるためにある。それが今、地域の人々の様々な会合に使われていることからもわかる。又、教会の交わりは、福音を聴く交わりではなく、福音に生きる交わりである。

主の慰めにあずかった私たちは、その慰めを自分だけに留めていてはならない。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」Ⅱコリント1:4。悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人に、私たちが慰めの手を差し伸べることができるのは、私たち自身が神から慰めをいただいているからである。

私たちの周りには、慰めを必要をしている人がたくさんいると思う。親子関係、夫婦関係、その他の様々な人間関係で行き詰っている人が、どこに慰めを求めたらよいのかわからずに、独りで悩み、苦しんでいる。主なる神はその人の傍らにいて深い慰めを与えてくださることを、祈りをもって伝えていきたい。教会は、「慰めの共同体」として、神と人々から、ますます期待されているのである。

与えられた命を大切にしたい

「東京バプテスト神学校デー」の時に、奈良教会の松原宏樹牧師の講演を伺い、命について深く考えさせられた。松原先生はNPO「みぎわ」を立ち上げて、家庭で暮らすことのできない子供の特別養子縁組を紹介し、ご自身の家庭でもダウン症と心臓に疾患のある一歳に満たない子供を育てておられる。先生がどうしてそのような思いに至ったのか。それは、日本で一年間に人口中絶数は、厚労省の統計では約20万人であるが、中絶の薬の量を考えると、その三倍の60万人、いや100万人とも言われている。2018年の出生数は91万人であることを考えると、約半数の子供の命が失われていることになる。出生前診断で、お腹の中の子供が障がいがあるかもしれないと診断された妊婦の90%が中絶を望む。その事を知った松原先生は、居ても立ってもいられなくなって、ドクターに「もう殺さないでください。私たちがなんとかしますから。」そう言って、子供の命を救う働きを続けてこられた。

今日、事故や事件で幼い命が失われる度に大きく報道される。どうしてその命が守れなかったのか、誰の責任か、大きく問われる。それほど命は大切なものである。しかし、お腹の中にいる子供に関しては、ただ親が望まなかっというだけで、合法的に殺されている。親の責任が大きく問われることもない。まさに日本は、「中絶大国」である。今日「少子化少子化」と叫ばれているが、実は、子供が生きる権利を奪われ、闇に葬られているのであって、少子化に至る原因がここにあるのではないか。

子供の命を軽く見るような日本の現状を主はどのようにご覧になるのだろうか。きっと憤りと深い悲しみを持っておられるに違いない。主は子供を退けられるどころか、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」マルコ10:14と言われ、「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」のである。そんな豊かな祝福を、主の方から子供たちを抱き上げて、与えてくださったのである。主は子供たちの人生を祝福しようと願っておられるのに、親の都合で妨げてはならない。

松原先生は、「神様はこの子を愛して、この子の人生に意味があるとおっしゃる。これに気づけるのはクリスチャンしかいないと思う。実は、聖書に“いと小さき者の一人にしたのは、わたしにしたのである。”と言われるように、主はそこにおられると、思われてならないのです。この働きを私たちは、これからも続けていきたいのです。」と言われた。誰の命も神の目から見るなら高価で尊いのである。私たちは、与えられた命を大切にしたい。

福音を宣べ伝えるためには

20年前、この会堂を建てた時、『上尾教会が求めてきた教会像』の中で、「私たちの教会の第一の使命は、地域に開かれた教会として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。」と宣言した。この宣言を今、深く噛みしめている。上尾教会が主の教会としてこの地域に提供できるものは何か、それは福祉でも教育でもない、主の福音である。主の福音が一人ひとりにどれほど豊かな人生をもたらしてくれるのかを宣べ伝えることである。そのために、特別な集会を企画し、案内のチラシをこの地域に蒔き、ホームページで広く案内してきた。その働きは、今後も続けていきたい。

20年経つと、この地域がどんな所か段々に分かってきた。三井住宅や西上尾第一団地は高齢化が進み、一人暮らしの方が多いこと、また、周辺には新しい住宅が次々と建てられ、若い世代が住んでいること。そのような異なる世代にも主の福音を届けるために、「泉のほとり」では、指圧、がんカフェ・認知症の方と共に生きる、終活、キリスト教式葬儀などのテーマで取り組み、また、子育て世代には、「プレクリスマス」などで、子供と楽しく過ごしてもらう企画が続けられている。

ビジネス界では「費用対効果」という言葉が使われ、かけた費用に対して、どれほどよい結果を得られたかが問われるが、福音宣教の世界は、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」コヘレト11:1。その時は、無駄(徒労)に思えても、何年後・何十年後に実を結ぶということが起こるのである。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」詩編126:5とは、真実である。

主の福音は、ただ言葉だけではなく、人格を通して語られる。三井住宅に建っている上尾教会は、近所の方から良きにつけ悪しきにつけ見られている存在である。近所の方に気持ちよく挨拶をするだけでも、教会に対する好感度は違ってくるだろう。

「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」使徒言行録2:46-47。私たちは近所の方から「好意を寄せられる」存在になっているだろうか、それとも煙たがられる存在になってはいないだろうか。神への賛美は、おのずと隣人への愛に向けられるものである。「地域に開かれた教会として、イエス・キリストの福音を宣べ伝える」ためには、日頃からの私たちの信仰生活が証となっているかが問われている。