週報巻頭言

Home / Archive by category "週報巻頭言"

Let’s think!(レッツ シンク!) 教会員

このタイトルを見て「あ!」と思ったあなたは、ドラマ「3年A組 今から皆さんは、人質です」をご覧になっていたのではないでしょうか。かくいう私もどっぷりとハマった一人です。SNSの閲覧数や情報に振り回されて、自分で思考し行動を選び取る力が顕著に低下している生徒達に、一人の生徒の死を通して主人公の高校教師がまさに命がけで訴えかけていくという内容でした。ドラマですから、現実にはあり得ないような場面も山ほどありましたが、節々に教師が口にする「レッツ シンク!」がキーワードでした。

「レッツ シンク!」=「考えて!」

これは何も子どもに対してだけではなく、大人にとっても重要なキーワードではないでしょうか。

このスチュワードシップ月間に上尾教会は、神様から託されている恵みにどう応えていくのか、沢山の方のお話(証)やこの巻頭言から示される2ヶ月を過ごしてきました。その内容は、心がホッと温かくなったり、あらためて再確認したり、刺激を受けたりと、実にバラエティに富んでおりました。証や巻頭言を書かれた方は、神様から託されているものについてすごく考えながら、その言葉を紡ぎ出したと思います。それを見聞きした人も自分に振り返っていろいろ考えたと思います。そしてそれぞれに受け取った「神様の恵みに私はどう応答していくか」を胸に日々を過ごし、また次の年のスチュワードシップ月間を迎えるのです。

というわけで、毎年巡ってくるスチュワードシップ月間は、その度に考えることを繰り返し「私」という人間が成長しながら、まるでソフトクリームのように回り巡って最後にはヒュッと天に向かって伸び、天国で神様に「我が子よ、よくやったね」と迎え入れて頂くことを願うのです。

ところが…。神様の恵みは心地良いものばかりではないこともあるのです。神様は恵みをより確かなものにする為に大きな試練を与えることがあります。しかしそんな時、傷みに涙する傍らに同じように涙しながら伴ってくださる神様がいます。「この試練の中にある恵みは何だろう」と、やっぱり考えながらその恵みの種を確かに受け取り、実を熟させ神様に応答していきたいと思うのです。Let’s think!

同労者となるために    教会員 

今年も皆さまと共にスチュワードシップ月間を過ごしています。毎年この時期に読む『神の同労者』という本には、1)スチュワードシップとは:神こそがすべてのものの支配者であり所有者であることを認め、神が与えてくださった管理者の働きに忠実であろうとすること。2)スチュワードの務めとは:イエス・キリストが先に立って示された「救いの計画」に参与すること。と書いてあります。またスチュワードシップは「神の同労者として生きる、ということでもあり、神から託された時間、からだ、能力、富などを神の愛を証しするために用いるのです。」ともありました。

私たちの持っている、時間、お金、健康状態、才能、経験のすべては神様から頂いたものです。まだ神様を知らない人に神様のことを伝えるため、そしてその人が永遠の命を受け取るためにそれらを使うようにと神様は願っています。そのように神様から頂いたものを使うことがスチュワードシップだと頭ではわかっているのですが、でもそれは時に本当に難しいこと。私の行いを見て、周りの人が「イエス様を信じることはステキ、自分も信じてみたい」と思ってくれたらどんなにいいかと思いますが、欠陥の多い罪人の私は、そのような行動を取りたいのに取ることができません。

そんな私に主はこう言われました。「願い求めないから得られないのです。」 ヤコブ4:2。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない。」マタイ19:26…呆気にとられました。確かに神様に願い求める前に、もっと頑張らなきゃと思っていました。ポイントは”私がどんな人間か”ではなく、”神様はどんなお方か“ということ。そのポイントを外さないために、ある人が効果的だよと教えてくれた方法があります。ノートに書くことです。右側に私の願い求めを書き、左側にそれに対して神様から示されたことを書きます。例えば、〇〇さんにもっと仕事をちゃんとやってほしいと伝えるべきか迷って神様にどうしたらよいか尋ねたことがあります。それに対する神様の答えは、「唇を守る者はその命を守る。唇を大きく開く者には滅びが来る。」箴言13:3でした。「はい、黙っています」と神様に言いました。そのことを日付を添えてノートに書いておきます。書いていくと分かりますが、神様は聖書の言葉や友人の言葉を通して、またただ黙って神を思う時にポンと答えてくださるなど色々です。ノートに書くことで神様がどんなお方かが分かります。主が共にいてくださることがわかります。善き同労者になる近道です。

主の山に備えあり       教会員

「あなたの賜物はなんですか。」と聞かれたら何と答えますか?才能と賜物は違います。が、人よりも秀でて出来ること、という思い込みから抜け出せず、私は答えることができませんでした。それは、神様に「私は何もいただいていません」と文句を言っているようなものです。

時々、アンケート等で「特技・趣味」の記入欄があります。私には非常に厄介な難問で、仕方なく「読書」と書きます。でも、人の役に立つものでもないし、自分の楽しみとだけ思っていました。

本は子供の頃から好きでした。遊びと読書のどちらも捨てがたく、時間確保のため下校時に歩き読みをしたこともあります。転校続きだったので、それぞれの図書室や図書館は、顔馴染みの本が待つ落ち着ける空間でした。親になり、子供たちが小学生のころ読み聞かせボランティアを続けられたのは、本に親しむ楽しさを経験したことによります。神様からの大きなプレゼントです。

今、私は教会学校のリーダーをしています。毎週末に、分級での静聴と分かち合いのために、祈りながら準備をします。絵など図工的なことが苦手で、そのジャンルの準備となると、どこから手を付けていいか分かりません。ところが聖書や資料を取り出し、読み始めることは苦にならないので、(理解力・読解力はさておいて)疲れていても始められます。内容がなかなか頭に入らず、寝落ちする時もありますが、クラスのメンバーに祈られて、準備が守られています。自分の努力やがんばりではないものに支えられた歩みです。賜物とは、神様の働きに参与させていただくために与えられた力や備えだと、改めて思わされました。人と比べてしまったら小さく平凡なことですが、大きな恵みです。しっかり受け取って、用いられるように祈ります。

もちろん葛藤や、信仰の戦いを伴うスチュワードシップも多くあります。自分の弱さに目がいき、ためらうことがあります。けれども、主の備えと恵みに気付く時に励ましを受け、感謝で満たされます。そこから力をいただいて、また次の「神様からの恵みへの応答」を始めていきたいと思います。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 ヨハネによる福音書15:5

 

 

クリスチャンとしての喜び     教会員

友人から質問を受けることがある。教会(礼拝)はどんなことをしているのか、クリスチャンはどんなことを信じているのか、教会生活を送ることやクリスチャンになることで何が変わるのか、多くの疑問があることが分かる。普段の生活の中で、教会のイメージと言えば“結婚式”や“聖歌隊”、“クリスマス”をイメージするのではないだろうか。牧師と神父を混同している友人も多くいる。それほど、教会に接したことが無い人は、ほとんど何も知らないのである。

私にとって、教会とは愛や赦しを学ぶ場所であり、クリスチャンとは神様と一緒に生きる生活であると言える。日本にとって、宗教を信じることはマイノリティであり、周囲の人に教会に行っていることやクリスチャン生活を理解してもらうことは難しい。宗教に頼ることは弱いこと、自分は信じるものはないと考える人に良く出会う。

人は何と悩みが多いことか。友人や家族関係、受験や仕事、恋愛、健康・・と日々様々なことに悩む。そして、恋愛成就や金運が上がるパワースポットを巡り、神社へお参りをする。結婚式はキリスト教式に憧れ、一貫した生き方を持たず、自分のために利益をもたらしてくれそうなことに興味を持つ。決してそのような姿勢を否定はしないが、無意識に私たちは迷い、何かに頼っていることに気付かないのである。

私は、クリスチャンとして信仰生活を歩む中で、多くの過ちを繰り返し、決して誇らしい人間ではない。自分の意見が正しいと意固地になることがある。周囲の人に心を通わせることができない弱さもある。しかし、毎週教会生活を送る中で、聖書や賛美、祈りによって自分の弱さを示され、我に立ち帰る時間を持てることは幸いである。また、愛し合うこと、赦し合うことについて深く考えることができる。それによって、心が豊かにされ、クリスチャンとしての喜びを実感できる。学校や社会では、愛情や思いやりは大切だと唱えるが、価値観が違う人や社会的に弱い立場の人を排斥したりや差別したりしている悲しい現実を見る。このような悲しい今日だからこそ、私たちにとって神様と繋がる教会は必要な場所であるのではないだろうか。クリスチャンの喜びを多くの方に知って貰えるように、これからも祈りたいと思う。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7.7

神様から与えられているもの 教会員

先日、3歳の娘が引出しの中にしまってあったお年玉を手に取り、「ママ、これでバナナも買えるし、献金もできるね!」と言った姿に心がほっこりしました。そして、こんなに小さくてももう「献金をする」ということが身についているのだと感心しました。

さて、今回スチュワードシップの巻頭言を書くにあたり、改めて私が神様から与えられ、託されているものについて考えてみました。健康、家族、仕事、お金、・・・どれも注意していないと、あって当たり前だと勘違いしてしまうものばかりです。

私は、今年大流行したインフルエンザに太刀打ちできず、10年ぶりに40度近い熱を出して数日間寝込みました。節々の痛みで寝たくても眠れず、ベッドの上で祈るのみ。“喉元すぎれば熱さ忘れる”という諺がありますが、体調が回復してもこの身体は神様に守られていることを忘れてはいけないと思いました。

また、我が家は夫の仕事の関係でここ2年ほど家族が離れて生活する日々が続いています。パパがいない弊害は主に子どもたちに及んでいます。パパがいない間は、私が夜中に少しでも動くと二人の娘も起きてきます。あんなにぐっすり眠っていたはずなのになぜ?と思いますが、「誰かがいなくなる」ということに非常に敏感になります。そして、ママを巡って兄弟喧嘩をする回数も格段に増えます。そうなると、私のイライラが爆発し、結局子どもたちが理不尽に怒られるという毎日です。神様が与えてくださっている家族を傷つけていることを反省し、同時に家族が一緒にいられることがどんなに感謝なことなのか肝に銘じなければいけません。

仕事やお金も得られてあたりまえではありません。昨年、ゲリラ豪雨で車検を通したばかりの愛車が水没し、廃車になってしまいました。急遽新しい車を購入する必要が生じ、まとまったお金も必要になった訳ですが、やはり生きていくためにはお金がいると痛烈に感じた出来事でした。ただお金というのは魔力も持っています。お金があればあるほど、自分は他よりも価値の高い人間であると錯覚しやすくなります。金額にばかり目がいってしまうと、献金することに抵抗が出てくる可能性もあります。私は経済的な長期プランを考えるのが得意ではないので、大まかなことは夫に任せています。でも、基盤は神様に任せることにしています。「天に宝を積みなさい」というみ言葉に従っていきたいと思います。

神様から与えられているたくさんの恵みに感謝をすることを忘れず、託された賜物を存分に用いていきたいと思います。そして「困ったときの神頼み」ではなく、「いつでもどこでも神頼み」をモットーに信仰生活を歩んでいきたいと思っています。

スチュワードシップの原動力     教会員

私たちの信仰は、自ら自分勝手に願いを聞き入れてくれる神を作り、それを拝むという偶像礼拝の信仰ではありません。神の語りかけてくださる言葉が先立つ信仰です。私たちは宣べ伝えられた福音を聞き、それに応えてクリスチャンとなりました。

スチュワードシップも、神様への応答です。心を低くして、神様のみ心を求め、そのみ言葉に従うことがスチュワードシップです。そして、み言葉が先立つスチュワードシップを支える力もまた、み言葉です。しかし、み言葉に従うということは容易なことではありません。神の求めの大きさに茫然としてしまうこともあります。心が落ち着かず、神からのみ言葉を聞くことができない時もあります。このような状況から私たちを救うのもまた、み言葉です。み言葉を求め、祈ることによって私たちは力を得るのです。日々、祈る中で私たちのスチュワードシップは豊かにされていきます。祈りとみ言葉、そして、教会の交わりがスチュワードシップの原動力になるのです。

スチュワードシップとは、神の恵みに目を注ぐことから始まる、喜びに満ちた人生への招きなのです。実際、それは日々の生活にかかわることです。ある時には、大胆な決断が必要となることもあります。クリスチャンには、イエス様が約束して下さった助け手が送られています。ですから、一歩、歩み出すならば大きな恵みが伴います。イエス様が共にいて、荷を担ってくださる。スチュワードシップを通して、私たちは主にある喜びを確かめ、深めることができるのです。私たちは捧げる時に、より深く神の恵みを知ることができるのです。

「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」詩編16篇10-11節。

 

 

 

拝する「礼拝」      教会員

私は、2018年度もいくつかの奉仕が与えられた。力不足の自分ではあるが、どれもなくてはならない奉仕ばかりである。私に与えられた奉仕の中のひとつに、「礼拝委員会」というものがある。牧師と奏楽者のお二人と共に、約3ヶ月先までの賛美や礼拝スケジュールを立てるというものだ。恥ずかしながら「礼拝」の意味も知らずに委員になった私は、これを機に秋山牧師にお借りした書物から学ばざるを得ない。

まず、神の愛が私たちを礼拝に招き、神様が「礼拝」を備えてくださる。そして、私たちはこの「礼拝」で神の愛の招きに応答していく。これを基本として「礼拝」を捉えると、主日の礼拝のすべてのプログラムの意味を理解することができる。

上尾教会では、秋山牧師から愛のこもった「宣教」を聴くことができる。秋山先生独自のわかりやすい言葉で、私たちの心に神の言葉が届けられる。秋山先生は、礼拝堂におられる一人ひとりに向かって神の言葉を語られ、慰めや希望を私たちに与えてくださる。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」ローマ信徒への手紙10:17。パウロがイスラエル人に神の言葉を聴く重要性を説いたこの箇所は、今も私たちの原点ではないだろうかと思う。

そして礼拝では、その時々に必要な賛美が捧げられ、奏楽者は演奏することよりも、会衆が賛美を捧げることに心を注ぐ。賛美は礼拝にとって、はかりがたいほどに大きな力を持つ要素である。祈りにも、司式者、説教者、献金、祝祷とそれぞれの目的がある。また、神の恵みへの感謝と献身のしるしとして献金をささげる。月に一度執り行われる「主の晩餐式」にも、イエス・キリストの十字架の贖いを思い起こすという意味がある。前奏より心を静めて神様にお会いする準備をし、その時を待ち、拝する。こうして礼拝によって神の愛に応答していく。

皆さんにおいては、当たり前のことであるかも知れないが、私は数年間、大事なことに気づかず、礼拝に出席し、讃美歌を歌い、主の晩餐式では、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)を口にしていた。神様から礼拝に招かれたとしても、私の礼拝に対する姿勢は、はたして神様からいただいた恵みへの応答になっていただろうか。

まさにスチュワードシップの原動力となる「礼拝」を大切にし、主の愛の恵みへの応答を積極的にしていきたいと思う。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩篇133:1

喜びと平安と信頼      教会員

スチュワードシップ月間に入りました。「イエスこそ私の主です」また「私は主のしもべです」と告白します。それは、主人であるイエス・キリストに忠実であろうとすることを意味します。私たちクリスチャンは、誰でも神の良きしもべとして生きたいという思いを持っています。この思いこそ、クリスチャンのスチュワードシップです。

私たちはともすると、スチュワードシップという言葉を聞いた時、何かしなければならない、何か献げなければならない、といった思いを持ってしまいます。神のために何かすること、それがスチュワードシップであると考えてしまうのです。しかし、忘れてはならないことは、主が先立ってスチュワードシップを示されたことです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」Ⅰヨハネ4:10。神が私たちを愛し、私たちに仕えてくださいました。私たちが献げるより先に主イエスは私たちの救いのために、全てを献げてくださったのです。私たちは、十字架に上げられた人、苦しみ、悩みながらも「十分の十」を献げたお方、神の救いの計画の完成のためにご自身を献げた、神の完全なるスチュワード、イエス・キリストを「私の主です」と告白します。そして、クリスチャンは、この主のスチュワードシップに倣うのです。

「わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。」出エジプト記29:46(口語訳)。ここを榎本保郎先生の『一日一章』によると、「私たちは内に住みたもうキリストという見解に同意するが、私たちの大部分は、ほとんどの時間、それに同意しないかのごとく行動する。私たちは、キリストが私たちの中にいまし、意志し、行為しておられると事実を見失ってしまった。その結果私たちは、神の子たちに正当に属するあの喜びと信頼と自発性を持っていない。当然の結果として、私たちの道は平らかなでなく、困難を伴っている。・・・では一体なぜあなたの中にキリストは生きておられないのだろうか。それはあなたが、エジプト(古い自分)から導き出したもう神に従って、出エジプトしていないからである。古い自分から出ることなしに内住の主を迎えることはできないのである。捨てることをおろそかにして求めることは愚かである。」

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」へブル12:2(口語訳)とあるように、ただ十字架の主を仰ぎ、与えられた信仰を固く持って、御許に行く日まで、共に走り抜こうではありませんか。

信仰は、神からの贈り物

私は教会に来ている方に、「イエス様を信じて、クリスチャンになってみませんか。」とお勧めすることがある。「はい、イエス様を信じて、クリスチャンになりたいです。」と応答してくださると嬉しいのだが、中には、「自分はまだまだ信仰は足りません。善い行いも出来ていません。聖書も深く知りません。」と、遠慮される方もおられる。しかし、信仰は自分の力で生み出すものではない。信仰は、神からの贈り物である。また、善い行いができないからこそ、罪を赦してくださるイエス様を信じ、聖書を深く知らないからこそ、イエス様を信じることによって、聖書を深く知ることが出来るのである。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」エフェソ2:8-9。人が救われるのは、神の「恵み」によるものであり、イエス様を信じる「信仰」によることであり、神からの「賜物」であり、「行いによるのではない」。自分の信仰が足りているとか、足りていないかということではない。

「イエス様を信じるだけで人は救われるのですか。私にはどうも納得がいきません。」という質問を頂くことがある。もしあなたの誕生日か何かの記念日に、親しい方から素晴らしいプレゼントが贈られたら、あなたはどうするか。多分嬉しそうに笑みを浮かべて、「有難うございます!」と言って、そのプレゼントを喜んで受け取るのではないか。

もし、あなたが「それはとても高価なものですから、今お金を払いますから、ちょっと待ってください。」と言ってお金を払おうとしたら、相手の人には大変失礼になり、その人はとても不愉快な気分を味わうに違いない。あなたにプレゼントした贈り主は、それを素直に感謝して受け取ってくれたら、それが一番嬉しいのではないか。贈り物は、何の代価も払わないで頂くからこそ、それは贈り物であり、プレゼントなのである。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマ6:23。聖書が教える救いは、対人関係の悩みとか、苦しみ、貧しさ、病気の苦しみ、不安と孤独感などからの救いというだけではなく、罪と死後の神の永遠の刑罰からの救いである。そして、「信仰」によって、罪の赦しも永遠の命も頂くことができる。「恵みによる救い」を頂くために、私たちがすべきことは、ただ素直に感謝して受け取ることである。受け取った時に、神の贈り物の恵みを深く味わい知ることができる。信仰は、神からの贈り物である。

 

主の愛に生きる教会

今年度の主題は、昨年度に続いて「主の愛に生きる教会」とした。主の愛に生きる教会として、深く掘り下げて歩んでいきたいとの願いからである。その指針として、

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」ルカによる福音書10章27節という聖句を掲げ、毎週の礼拝の「招きの言葉」として唱えてきた。この御言葉は、お題目のように唱えることに意味があるのではない。唱えながら、どのように実践するかが問われている。

愛するとは、どういうことであろうか。私はアレキサンダー・マクラーレン牧師の言葉を思い出す。「愛するとは、愛する人が望むことをわが望みとして行動し、その望みが叶えられた時に、共に喜ぶことである。」 上尾教会では今、多くの方が「友愛チーム」の一員となって、送迎のために奉仕してくださっている。そのお陰で、集会に参加できる方の何と多いことか。その喜ぶ姿を見て、奉仕する者も嬉しくなるのではないか。愛する人が何を必要としているのかをキャッチして、自分にできることを行っていく、そして、喜んでいる姿を見て、主に感謝を捧げていく、これが愛するということではないか。病床に見舞いに行く、施設や家庭を訪ねる、そして、祈りを合わせる・・これらの事が、教会に来たくても来れない方にとっては、大きな慰めになるだろう。

パウロも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ローマ12:15と語る。「共に喜び、共に泣く」とは、共感することである。それは、同じ思いを抱く、同じように感じるということだけではなく、その人にとっての辛いことや本当に克服したいこと、求めていることを共に求めていくという思いで関わることでもある。それだけに、自分も傷ついたり、悲嘆にくれたり、何の力にもなれないという無力感を感じることがあるかもしれない。しかし、この共感こそ、主の愛に生きる教会を生み出すのである。

私たちは、人間の力では人を愛することはできない。愛する人の願いよりも、自分の願いを優先し、相手を悲しませてしまうことが何と多いことか。自己愛に翻弄される私たちは、神から愛(慰め)をいただかない限り、人を愛する(慰める)ことはできない。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」Ⅱコリント1:4「神からいただく慰め」とは、主の十字架の赦しに与ることである。「こんな罪深い私さえ、主は十字架にかかって愛してくださった」と気づく時、愛する者に変えられるのである。