週報巻頭言

Home / Archive by category "週報巻頭言"

御救いの良い知らせを告げよ

来週、金丸真先生を仙台からお迎えして、春の特別伝道集会(以下「特伝」)を行う。かつて特伝といえば、金曜・土曜の夜と主日礼拝の3回行うのが、当たり前であった。講師も3回あると、人間の罪、十字架の救い、新生の喜び、と十分に語ることができた。又、来会者も3日間続けてくる方も多く、特伝で救いの確信に至り、バプテスマの決心に導かれた方も多かった。それが社会の変化によって、3日間集う方が少なくなり、特伝が2日になり、遂に主日礼拝の1回になった。十分に福音を聞く機会が少なくなった分、特伝で救いの確信に至る人が少なくなったことは、残念である。

しかし、特伝が一回になったとしても、新たな人が招かれ、主の救いを求めるきっかけになれば幸いである。私たちは特伝を迎えるにあたって、「あなたの人生にも役立つ良いお話だから、是非この集会に来てください。」とお誘いしたい。先週の祈祷会の箇所に、「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」列王記下7:9とあった。私たちは誰かから福音を伝えられて、主の救いに与ることができた。だから、自分が救われたことに満足し、黙っていてはならない。主の救いという良い知らせを伝える責任が私たちにもある。私たちが伝えなければ、誰も特伝に招かれることも、主の救いに与ることもできないだろう。実は、特伝の主役は、講師ではなく、私たちである。

私たちには、特伝の時だけ声を上げて伝えることが求められているのではない。むしろ、日々の生活の中で、主の救いを伝えることが求められている。「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。」歴代誌上16:23「日から日へ」とは、主日礼拝の時だけではなく、毎日、主の救いを伝えることである。毎日が特伝である。私たちは毎日、何を語っているだろうか。主の救いを語るよりも、不平不満を語っていることが多いのではないか。私たちが「告げる」べきことはなにか。不平不満ではない。それは、「御救いの良い知らせ」「主の栄光」「その驚くべき御業」である。主なる神がイスラエルの民をエジプトの支配から解放して、自由に身にしてくださったように、御子イエス・キリストを遣わして、十字架の死と復活の御業によって、私たちを罪と死の支配から解放して、救い出してくださった喜びの出来事こそ、告げるべきことである。

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とパウロは語ったが、美しいのは、足だけではない、その人の人生も生き方も美しい。そんな美しい人になりたい。

 

涙の子は決して滅びることはない

4世紀に活躍した古代教父アウグスティヌスは、現代においても大きな影響力を持つ神学者であるが、青年時代は異教に没頭し、福音に背を向けていた。しかし、彼は劇的な回心をもって信仰に至る。その背後には、アウグスティヌスの母モニカの祈りがあったと言われている。アウグスティヌスは、救われたのちに母モニカの祈りの様子を語っている。「私の母が祈る時、涙が川の水のように流れ落ちて、彼女がどこで私のために祈ってくれても、あなたのしもべ私の母が祈る時、彼女の膝の下の地面が濡れているほどでした。」座っている所が涙で濡れるほどに、モニカはそれこそもがくようにアウグスティヌスの救いを願って祈り続けたのである。

祈っても無理だ、息子は福音に耳を貸すはずがないと思っても不思議ではない。しかし、愛する息子が救われてほしいとの一心で、モニカは来る日も来る日も涙を流して祈り続けた。それでも息子が救われる機運が微塵もないことに不安を覚え、司教のアンブロジウスの所に相談にいった。すると、アンブロジウスは、「安心して行きなさい。涙の子は決して滅びることはない。」と慰めた。この言葉の通り、モニカがなくなる一年前にアウグスティヌスは回心し、主を信じる者となった。後に、アウグスティヌスは、「自分を二度産んでくれた人」と母モニカに何度も感謝の意を表している。一度目は出産の苦しみであり、二度目は霊の子が誕生する苦しみである。

祈祷会でも、「わが子の救いのために祈ってください。」と毎回リクエストされ、涙して祈っておられる母親がいる。その姿に、ここにも「現代のモニカ」がいると感じる。この祈りは、主の心を激しく突き動かす涙の祈りでもある。ナインの町でやもめの息子が死んだ時、主は泣き崩れる母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい。」ルカ7:13と言われ、息子を生き返らせた。この涙の祈りに主は応えられたのである。

お父さんとは違う、お母さんにしか流せない涙がある。子を思う母の涙である。理屈抜きに飛び込んでいき、無意味だと笑われても必死になって家族の救いのために何でもする母にしか出来ない愛の姿がある。お母さんたち、わが子の不信仰を嘆く前に、諦めることなく、主の心を激しく突き動かすほどの涙の祈りを捧げようではないか。涙の子は決して滅びることはない。主は、涙の祈りを必ず聞いていてくださるからである。そして、教会はいつもこの母の涙の祈りに支えられていることを覚えよう。「主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。」イザヤ38:5

 

信仰の継承を目指したい!

子どもに遺すものがあるとするなら、それは「信仰」である。クリスチャンの親であれば「信仰の継承」を真っ先に願うのではないか。しかし、これが難しい。二世代三世代揃って礼拝を一緒に捧げている家庭が少ないことからもわかる。信仰の継承は、「家庭教育」7割、「教会教育」3割と言われる。それだけ家庭での役割は大きい。

家庭教育はいつから始めたらよいか。それは、お腹にいる時からである。「胎教」と言われるように、子宮の中にいる子どもは外の声が聞こえるので、祈りや賛美は清らかな心をもたらす。そして生まれてからは、抱っこしながら、日々、感謝の祈りや食前の祈りを捧げる。そして、ひらがなが読めるようになれば、子どもに聖書をプレゼントするとよい。我が家では「親子聖書日課」を用いて、夕食後、家庭礼拝を持ったが、子ども達は、最初は一緒に聖書を読めたという喜びを見いだし、次に問題の答えを見つけたという喜びを見いだし、最後は聖書の中身を知る喜びを見いだしていった。

アルフレッド・テニソンは、「聖書を読むことそのことが教育なのである。」と言ったが、本当にそう思う。子どもが聖書に親しむことによって、思考力や判断力が身に付き、歴史にも興味を抱くようになり、何よりも豊かな心が育っていく。子どもにはこんな出来事は知らせたくないという聖書箇所もあるが、子どもなりに受け止め、人間は罪深い者であることを悟っていく。家庭礼拝は、気が向いた時にやろうとしても続かない。むしろ、毎日の習慣になれば、続けられる。たとえ途絶えることがあっても、三日坊主を繰り返せばよい。それによって、また続けることができる。家族で食卓を囲むことが楽しいように、家族で御言葉を聴くことが楽しいひと時になったら素晴らしい。「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」箴言22:6「初め」が肝心である。幼い頃からの霊育が、信仰の継承に繋がる。

教会では、分級や礼拝、祈祷会に子どもと一緒に参加することである。宣教は理解できなくても、御言葉は耳だけではなく、毛穴からでも入っていく。幼小科では毎週、楽しく賛美したり、紙芝居で聖書のお話を聞いたり、工作をしたりしながら、神様がどんなに私たちを深く愛してくださっているか伝えている。また、教会で行う様々な集い、連合や連盟の主催する集いに参加して、友達を作り、楽しい思い出を沢山作っていくことが大切である。我が家の子ども達も小羊会、少年少女会で出会った友達が今でも信仰のよき友となっている。時を生かして、信仰の継承を目指したい。

愛によって互いに仕え合う

昨年度の主題「主の愛に生きる」と聖句心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」ルカ10:27が本日をもって終わるのは寂しい気がするが、私たちの教会生活の指針でもあるので、これからも心にしっかりと留めていきたい。本日の宣教箇所にも、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5:13とあるので、私たちが罪から自由にされたのは、愛によって互いに仕え合うという生き方をするためである。

ルターが『キリスト者の自由』の結論で、「キリスト者の自由は神の愛の内にあり、愛によって隣人に生きる自由である。」と語っているが、自由が神と隣人とを愛する愛と結びついていなければ、その自由は多くの場合、勝手気ままであったり、時に傲慢な自己主張となったり、他者をも自分をも生かすことがない死んだ自由となる。残念ながら、自己主張ばかりして、他者を悲しませているような現実を見ないだろか。

「愛によって互いに仕えなさい。」の愛は、「アガペー(神の愛)」である。そして次節の、「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」とは、自分自身が主の愛によって赦され愛されているように、隣人を主の愛をもって、赦し愛するようにということである。私たち自身にはそのような主の愛はないが、主に従うことを通して、神の愛が豊かに注がれるのである。太陽の光を受けて月はその光を反射するように、神は私たちを通して神の愛を表してくださる。そして、愛するというレッスンを繰り返す中で、愛することが以前よりも容易になってくる。それでも尚、私たちは失敗してしまう時があるかもしれない。しかし、愛によって働く信仰は、私たちのそんな弱さをや罪をも包み込んでしまうほどの力がある。

パウロは自分の罪深さを自覚していた。だからこそ、主の愛によって働く信仰の力を誰よりも理解していた。その力によって、隣人を愛し、教会を愛し、主にある兄弟姉妹を愛し、神を愛した。そして、多くの人々を主の救いへと導くことができた。 私たちは、主の愛によって働く信仰の働きを見たいと思う。そのために、自分自身がどれほど赦され、どれほど愛されているのか、主の愛を日々思い起こしたい。そして、主の愛によって働く信仰によって、隣人を愛し、兄弟姉妹を愛し、教会を愛し、神を愛していきたい。愛によって互いに仕え合う、それが最も自由な生き方である。

昨年度の主題「主の愛に生きる」と聖句心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」ルカ10:27が本日をもって終わるのは寂しい気がするが、私たちの教会生活の指針でもあるので、これからも心にしっかりと留めていきたい。本日の宣教箇所にも、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5:13とあるので、私たちが罪から自由にされたのは、愛によって互いに仕え合うという生き方をするためである。

ルターが『キリスト者の自由』の結論で、「キリスト者の自由は神の愛の内にあり、愛によって隣人に生きる自由である。」と語っているが、自由が神と隣人とを愛する愛と結びついていなければ、その自由は多くの場合、勝手気ままであったり、時に傲慢な自己主張となったり、他者をも自分をも生かすことがない死んだ自由となる。残念ながら、自己主張ばかりして、他者を悲しませているような現実を見ないだろか。

「愛によって互いに仕えなさい。」の愛は、「アガペー(神の愛)」である。そして次節の、「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」とは、自分自身が主の愛によって赦され愛されているように、隣人を主の愛をもって、赦し愛するようにということである。私たち自身にはそのような主の愛はないが、主に従うことを通して、神の愛が豊かに注がれるのである。太陽の光を受けて月はその光を反射するように、神は私たちを通して神の愛を表してくださる。そして、愛するというレッスンを繰り返す中で、愛することが以前よりも容易になってくる。それでも尚、私たちは失敗してしまう時があるかもしれない。しかし、愛によって働く信仰は、私たちのそんな弱さをや罪をも包み込んでしまうほどの力がある。

パウロは自分の罪深さを自覚していた。だからこそ、主の愛によって働く信仰の力を誰よりも理解していた。その力によって、隣人を愛し、教会を愛し、主にある兄弟姉妹を愛し、神を愛した。そして、多くの人々を主の救いへと導くことができた。 私たちは、主の愛によって働く信仰の働きを見たいと思う。そのために、自分自身がどれほど赦され、どれほど愛されているのか、主の愛を日々思い起こしたい。そして、主の愛によって働く信仰によって、隣人を愛し、兄弟姉妹を愛し、教会を愛し、神を愛していきたい。愛によって互いに仕え合う、それが最も自由な生き方である。

死は勝利にのみ込まれた

私たちは必ず死を迎えなければならない。だから、中世の修道院では「メメント・モリ(汝、死すべきことを覚えよ)」と門に記した。又、作家の三浦綾子さんも「私にはまだ死ぬという仕事がある。」との言葉を残した。私たちは自分の死を真剣に考えるべきであるが、死を恐れるあまり、死から目をそらしてはいないだろうか。「死んだら万事休す」と思えるほど、死が勝利し、私たちをのみ込んでしまう現実を恐れるのである。

しかしパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」1コリント15:54-55と、高らかに勝利宣言した。これは何と力強い、喜びに満ちた宣言であろうか。死の威力はまるで嘘のように消え失せてしまった。一体このような死に対する勝利はどこから来るのか。それは神ご自身が「死」という人類最大の敵を、勝利のうちにのみ込み、その力を打ち砕いて亡きものにしてしまったのである。それによって私たちを支配していた死に、私たちは逆転勝ちして勝利をつかむことができたのである。

私たちが死に敗北するのは何故か。それは死のとげである「罪」があるからである。そして律法はその罪を増大させ、律法を守らなければ、神の罰が与えられることを絶えず人に知らせ、絶望に導くのである。しかし主が十字架で死んでくださり、復活してくださることによって、この死のとげを抜き取ってくださった。私たちは主を信じて主に結ばれる時、死のとげが抜き取られ、主の復活の命に与る者とされる。

死はあっけなく、主の勝利のうちにのみ込まれた。復活の主という勝利者にのみ込まれて、滅ぼされたのである。主はいったん生き返ってまた死んだのではなく、3日目に復活された主は、今も生きておられる。単なる蘇生ではない。主は、死とは無関係の罪なきお方であり、死に対して、究極的な勝利を果たされたのである。

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」ヨハネ14:19と、主は死を克服し、主を信じる者に、復活の命を約束してくださった。私たちは死に対して、真正面から向き合うべきではないか。それは、最期の時をどう迎えるか、「終活」することよりも、死後はどうなるのか、ということを問うことである。何の答えも見いださないままに死んでいくのか、それとも主にその復活の命を見いだし、真の平安に与るのか、そのどちらを願うのか。今日のイースターの良き日に、主を信じて、主の復活の命に与り、「死は勝利にのみ込まれた。」と勝利宣言する者でありたい。

 

受難週の祈り

今日から受難週に入る。主はどのような一週間を過ごされたのか、その足取りを辿り、自らの生き方を顧みたい。水曜日の朝と夜の祈祷会では、最後の晩餐の再現をし、主の十字架の血潮をしっかり心に刻みたいと思うので、皆さんの参加を期待している。主の受難とその後の復活の出来事は、マタイによる福音書21章から最後の28章まで、全体の約30パーセントを用いて記している。いかにこの受難週の出来事が重要であるかが分かる。この一週間の出来事は、凡そ以下のようになる。

日曜日 エルサレム入城  マタイ21:1-11

月曜日 宮清め        マタイ21:12-22

火曜日 教えと論争の日   マタイ21:23-26:5

水曜日 ベタニヤでの香油  マタイ26:6-16

木曜日 最後の晩餐、ゲツセマネの祈り マタイ26:17-75

金曜日 受難日         マタイ27:1-61

土曜日 安息日          マタイ27:62-66

日曜日 復活            マタイ28:1-20

祈り・・憐れみ深い、私たちの天の父なる神様

主イエスキリストの受けられた苦しみを覚え、復活へと続く道を辿る受難週となりました。この日曜日は私たちの主イエス・キリストがエルサレムに入られた日です。ご自分の死に場所、最期の時を知って、なお進んで行かれた主の姿は、どのようなものであったのでしょうか。み言葉によれば、そのみ顔はしっかりとエルサレムに向けられていたとあります。揺るぎはありませんでした。

それに比べて、私たちは弟子たちと同じように、揺れ動く地にあって、恐れや不安にさいなまれ、信仰までも萎縮してしまう弱さを感じています。小さな情報に、大騒ぎをしてしまう愚かな者です。復活の主を信じていながら、あなたにより頼むことができないのです。

そのような私たちを憐み、この受難週を通して、あなたを見上げる者としてください。主の歩まれた十字架の道を辿り、父なる神様のみ心に従う者としてください。主の憐みの中でこの一週間が守られ、復活の日を迎えることができますよう、心からお祈りを致します。主の御名によってお祈りを致します。

 充実した楽しいクラスを目指して!

今日から2019年度を迎え、分級は新しいクラスになった。「幼小科」「ユース科」はリーダーも新たになり、幼児から大学生までの参加を期待している。又、成人科は「はこぶね」「パウロ」「サムエル」「オリーブ」の4クラスになり、メンバーは大幅に入れ替わったので、新しいメンバーとこの一年、御言葉を分かち合うことによって、豊かな交わりと学びの機会を得て頂きたいと願っている。又、新しい人が入ることによって、クラスが活気づくので、積極的にお誘いして頂きたい。

充実した楽しいクラスは、リーダー一人の努力だけでは生まれない。メンバー一人一人の姿勢が大切である。まず休まないこと。毎週積み重ねて参加していくことが充実したクラスを生んでいく。又、聞き上手になること。御言葉を聴くことに対して、自分が現実に抱えている課題、悩み、重荷に対する答えを求めつつ聴くと、適切な御言葉が与えられ、そこから大きな力と慰めを頂けるだろう。又、聖書は神からの私達へのラブレターなので、「あなた」「かれ」「わたし」に置き換えて聴くと、神の愛がジーンと伝わってくるだろう。聴くということは、語り手である神の御心を聴いて従うことが求められている。人の話を聴くことに対しても、「自分の聞きたいこと」「聞く」(Hear)のではなく、「相手の言いたいこと、伝えたいと願っていること」を受容的・共感的態度で「聴く」(Listen)ことが求められている。「ああ、そうなんだ」と共感し、感情を汲み取ってあげるなら、相手は自分が受け入れてもらっているという安心感を持つだろう。

御言葉を分かち合うことにも、メンバー一人一人の姿勢が大切である。短い時間の中で、お互いに霊の恵みを聴くことが大切で、一人の人が長々と話すことは控えたい。分かち合いたいことが沢山あったとしても、多くても3つまでにし、3分位の短い言葉でまとめて話すことを心がけたい。むしろ、一つの御言葉を掘り下げて話す方が効果的である。話し出すと止まらなくなり、くどくなり、感情的になる人がいると、クラスの雰囲気が悪くなるので、お互いに気を付けたい。

「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」エフェソ4:29「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」ヤコブ1:19「話し上手は、聞き上手」と言われるように、お互いが聞き上手になってはじめて、豊かな人間関係が作られる。聞き上手の人とは一緒にいて楽しい!また会いたい!また話したい!と思う。そんなクラスを目指したい!

神の恵みに目を注ぐ   教会員

上尾キリスト教会に転入会させていただいて15年、教会では毎2月3月は、「スチュワードシップ月間」として、教会員による週報の巻頭言や礼拝での証しがなされている。私も過去何回か巻頭言や証しを担当することがあり、その都度自分の信仰を点検する機会を持ってきた。

「スチュワードシップ」という横文字の言葉は何となじまない言葉だろうかと考えつつ、テキスト『神の同労者』にある神から与えられている、時間、からだ、賜物、献金等、神のために用いているのか、自己満足の手段としていないか、吟味する時と思ってきた。そして、信仰がマンネリ化しないために必要なことと思ってきた。

今回、テキストにある「スチュワードシップはクリスチャンにとって神の恵みに目を注ぐことから始まる、喜びに満ちた人生への招きなのです。」との文章が目に留まった。神の恵みは、単に生かされているとか、守られているとか、日用の糧を与えられているとかだけではなく、神との出会いによって180度人生が変えられることにあるのではないか。神に背を向けてきた罪人たる私が神の独り子イエス・キリストを救い主として受け入れることによって、キリストの十字架と復活を信じることによって、私を取り巻く周囲は変わらなくても、私の心が変えられたこと、今までの罪を悔い改め、神と和解させていただき、心に平安が与えられ、感謝が湧き、喜びの人生を歩むことができること、それが一番肝心なことではないかと示された。

「初心忘るべからず」という言葉もあるが、救いの原点に目を注ぐこと、それが神の恵みに目を注ぐことではないだろうか。信仰の出発点を忘れて、スチュワードシップの働きにいくら励んでも、義務感とか責任感とかから、やがて疲れが出てくるのではないだろうか。

私自身信仰生活は33年になる。疲れを覚えた時もある。改めて神の恵みに目を注ぐことから日々の歩みを確かなものにしていきたいと思う。何よりも自分の存在も他の人の存在も神にあって喜ぶ人生でありたい。神を喜ぶことこそ、あらゆる力の源である。

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節

Let’s think!(レッツ シンク!) 教会員

このタイトルを見て「あ!」と思ったあなたは、ドラマ「3年A組 今から皆さんは、人質です」をご覧になっていたのではないでしょうか。かくいう私もどっぷりとハマった一人です。SNSの閲覧数や情報に振り回されて、自分で思考し行動を選び取る力が顕著に低下している生徒達に、一人の生徒の死を通して主人公の高校教師がまさに命がけで訴えかけていくという内容でした。ドラマですから、現実にはあり得ないような場面も山ほどありましたが、節々に教師が口にする「レッツ シンク!」がキーワードでした。

「レッツ シンク!」=「考えて!」

これは何も子どもに対してだけではなく、大人にとっても重要なキーワードではないでしょうか。

このスチュワードシップ月間に上尾教会は、神様から託されている恵みにどう応えていくのか、沢山の方のお話(証)やこの巻頭言から示される2ヶ月を過ごしてきました。その内容は、心がホッと温かくなったり、あらためて再確認したり、刺激を受けたりと、実にバラエティに富んでおりました。証や巻頭言を書かれた方は、神様から託されているものについてすごく考えながら、その言葉を紡ぎ出したと思います。それを見聞きした人も自分に振り返っていろいろ考えたと思います。そしてそれぞれに受け取った「神様の恵みに私はどう応答していくか」を胸に日々を過ごし、また次の年のスチュワードシップ月間を迎えるのです。

というわけで、毎年巡ってくるスチュワードシップ月間は、その度に考えることを繰り返し「私」という人間が成長しながら、まるでソフトクリームのように回り巡って最後にはヒュッと天に向かって伸び、天国で神様に「我が子よ、よくやったね」と迎え入れて頂くことを願うのです。

ところが…。神様の恵みは心地良いものばかりではないこともあるのです。神様は恵みをより確かなものにする為に大きな試練を与えることがあります。しかしそんな時、傷みに涙する傍らに同じように涙しながら伴ってくださる神様がいます。「この試練の中にある恵みは何だろう」と、やっぱり考えながらその恵みの種を確かに受け取り、実を熟させ神様に応答していきたいと思うのです。Let’s think!

同労者となるために    教会員 

今年も皆さまと共にスチュワードシップ月間を過ごしています。毎年この時期に読む『神の同労者』という本には、1)スチュワードシップとは:神こそがすべてのものの支配者であり所有者であることを認め、神が与えてくださった管理者の働きに忠実であろうとすること。2)スチュワードの務めとは:イエス・キリストが先に立って示された「救いの計画」に参与すること。と書いてあります。またスチュワードシップは「神の同労者として生きる、ということでもあり、神から託された時間、からだ、能力、富などを神の愛を証しするために用いるのです。」ともありました。

私たちの持っている、時間、お金、健康状態、才能、経験のすべては神様から頂いたものです。まだ神様を知らない人に神様のことを伝えるため、そしてその人が永遠の命を受け取るためにそれらを使うようにと神様は願っています。そのように神様から頂いたものを使うことがスチュワードシップだと頭ではわかっているのですが、でもそれは時に本当に難しいこと。私の行いを見て、周りの人が「イエス様を信じることはステキ、自分も信じてみたい」と思ってくれたらどんなにいいかと思いますが、欠陥の多い罪人の私は、そのような行動を取りたいのに取ることができません。

そんな私に主はこう言われました。「願い求めないから得られないのです。」 ヤコブ4:2。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない。」マタイ19:26…呆気にとられました。確かに神様に願い求める前に、もっと頑張らなきゃと思っていました。ポイントは”私がどんな人間か”ではなく、”神様はどんなお方か“ということ。そのポイントを外さないために、ある人が効果的だよと教えてくれた方法があります。ノートに書くことです。右側に私の願い求めを書き、左側にそれに対して神様から示されたことを書きます。例えば、〇〇さんにもっと仕事をちゃんとやってほしいと伝えるべきか迷って神様にどうしたらよいか尋ねたことがあります。それに対する神様の答えは、「唇を守る者はその命を守る。唇を大きく開く者には滅びが来る。」箴言13:3でした。「はい、黙っています」と神様に言いました。そのことを日付を添えてノートに書いておきます。書いていくと分かりますが、神様は聖書の言葉や友人の言葉を通して、またただ黙って神を思う時にポンと答えてくださるなど色々です。ノートに書くことで神様がどんなお方かが分かります。主が共にいてくださることがわかります。善き同労者になる近道です。