週報巻頭言

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神ファーストに生きる

最近、「都民ファースト」とか「アメリカファースト」という言葉をよく耳にする。「都民第一主義」「アメリカ第一主義」という意味であるが、悪く言えば、「私さえよければ、他の人はどうなってもよい」ということにもなる。私たちも「私ファースト」になってはいないだろうか?私も先日、子供たちから「信夫ファースト」でけしからんと言われた。

「私ファースト」の行きつくところはどこか。「愚かな金持ち」の例え話では、自分の畑が豊作であった金持ちが、その作物を分かち合うことをせず、自分がこれから先何年も食べたり飲んだりして楽しむために、もっと大きな倉を建て、そこに仕舞い込んだ。すると神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」ルカ12:20と言われた。自分のために仕舞い込んでも、命の保証にはならない。地上を去る時、何一つ持っていくことはできない。「私ファースト」という生き方が、どれほど虚しいかを悟って、悔い改めたい。

私たちをご自身に似せて造られた神は、「神ファースト」に生きることを私たちに願っておられる。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」マタイ6:19-20。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」マタイ6:33。この主の言葉に聞き従って生活してみると、神が必要なものを必ず満たしてくださることを経験する。

「神ファースト」は、お金の使い方にもよく表れる。収入がある時には、真っ先に献金として捧げる。それも「収入の十分の一」を目安として捧げる。すると、無駄遣いせず、シンプルライフが身に着く。最後に余ったら捧げようと思うと、十分な献金はできない。長男は生真面目にも家計簿をつける習慣があるが、献金は支出の項目ではなく、収入の項目に入れていた。尋ねてみると、「献金は天国銀行に貯金するようなものだ」との返事があった。マイナス金利時代、この地上に富を積んでいても一向に増えないが、天に富を積むならば、何倍にも何十倍にもその富が用いられる。

「神ファースト」に生きる時、人生も教会の働きも実を結んでいく。「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。」ローマ15:3(口語訳)。だとしたら、「私ファースト」の生き方を捨てて、「神ファースト」に生きる信仰の道を選び取ろうではないか。

「復元」ではなく、「復活」がある

本日、主の復活をお祝いするイースターを迎えた。2千年前、主は十字架にかけられて死なれ、墓に葬られたが、三日目の日曜日の朝に復活された。主の復活は、私たちに死への勝利をもたらした。イースターは、日本の社会ではまだまだ馴染みがないが、教会では最も大切な日である。もし主の復活がなければ、私たちの信仰も、教会が存在することも、こうして毎週礼拝を捧げることもなかったであろう。

死は、すべての人にとって最大の敵である。今まで死に打ち勝った人は一人もいない。しかし、ここに唯一の例外がある。主はただ一人、復活して、死の力を打ち破られた。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54〜55。死がすべてをのみ込んだのではない。そうではなくて、死は勝利にのみ込まれた。実に不思議な言葉である。死はすべてを取り去ってしまうではないか。死はどうすることもできない壁のように私たちの前に立ちはだかっている。しかし聖書は「死は勝利にのみ込まれた」と語る。それは、死が主の復活の勝利にのみ込まれたからである。だから目の前にどんな苦しみがあっても、必ず勝利することができる。

「復元師」という仕事があるのを聞いた。事故や災害などで傷ついた遺体を生前の面影に近く復元し、本人の顔にかつての笑顔を戻すことを通して、遺族の悲しみを少しでも和らげ、「愛する人の死」を受け入れやすくし、穏やかな別れが出来るようにするという仕事である。復元された面影を見て、遺族は、悲しい中でもそこに亡くした人を一時だけでも「取り戻せた」という思いから、ある種の満足感を味わうそうだ。

私は、「亡くなった方の面影を復元する」というこの話を聞いた時、「私は、もっと素晴らしいことを知っている。もっと素晴らしい希望を、私たちはいただいている」と思った。その希望とは、「復元」ではなく、「復活」である。一時だけ復元されるのではなく、永遠に復活させられる。「復元」の場合は、仮に100%復元されたとしても、また朽ちてしまう。けれど、「復活」の場合は、永遠に朽ちることはない。もはや「失ったり、死んだり、朽ち果てたり」することはない。単に「元の姿に戻る」のではなく、「以前の命と体」よりも遥かに優れた、「朽ちない、霊の体、永遠の命」に変えられる。それが、主が自らの「復活」で示してくださった「復活の希望」である。私たちは「主の復活」を知らないと、「今の命と、今の体」に拘ってしまい、死に絶望する。復活の主を信じることによって、「朽ちない、霊の体、永遠の命」に変えていただこうではないか。

主の十字架の赦しこそ、和解の道

主イエスが十字架の道を歩まれた「受難週」を迎えた。今日は、主がろばの子に乗ってエルサレムに入城され、群集がしゅろの枝をもって、「ホザナ(今、救ってください)」と叫んで出迎えたので、「しゅろの主日」と呼ばれている。そして木曜日には、「最後の晩餐」が行われた。この晩餐の席で、主は弟子たち一人一人の前にひざまずいて、彼らの足を洗われた。主は、体の中で最も汚れた足を洗うことを通して、御自身のかかられる十字架こそ、私たち人間の内面にある最悪の汚れである「罪」を引き受ける救いのしるしであることを示された。上尾教会ではこの最後の晩餐に倣い、水曜日の祈祷会で、「最後の晩餐の再現」を行うので、皆さんの出席を期待している。

金曜日は、主が十字架にかかられた「受難日」である。主は、鞭打たれ、その傷んだ肩に十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで背負って行かれた。そこで、主は十字架につけられ、最期の時を迎えたが、主は十字架につけた者たちのために祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34。一体誰が、何の罪もないのに、迫害する者のために、このように祈ることができるのか。

私たちは、自分のことを理解してもらえず、非難されたり、責められたりすると、「父よ、彼らを裁いてください。」と祈っている自分があるのではないか。そして、うまく行かないことがあれば誰かのせいにしたり、言い訳をしている自分があるのではないか。少なくとも、私にはある。御言葉を聴き、霊で満たされた後も、またすぐに自己中心になってしまう私がいる。主が流された血は、こんな私のためであった。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この「彼ら」とは私自身のことである。この祈りは私のための祈りでもある。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ群集の中に私がいる。議員の中に私がいる。兵士の中に私がいる。ピラトの中に私がいる。彼らの姿は、まさに私たちの姿ではないか。私たちの罪のために、贖いの業を成し遂げてくださった、主の十字架の赦しに感謝したい。

マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのは、1968年4月4日。それは受難週の最中の出来事であった。直後の礼拝で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との祈りが何度も唱えられた。キリスト者は、決して暴力で抵抗しなかった。ただ赦しによって抵抗した。主の十字架の赦しこそ、和解の道であることを知っていたからである。その和解の道を私たちも歩んでいきたい。

 

連盟結成70周年を迎えて

明日、日本バプテスト連盟が結成されて70周年を迎える。E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、1947年4月3日、西南学院教会で日本バプテスト連盟の結成総会が開かれた。参加したのは、日本基督教団から離脱した旧西部組合系の16教会であった。旧西部組合系とは、1889年に米国南部バプテスト連盟国外伝道局(SBC)が、マッコーラム、ブランソン二組の宣教師を派遣、これらの宣教師の働きによって、九州を中心に伝道が始まり、1903年に「西部組合」が結成されたが、第二次世界大戦直前に、日本基督教団に合同し、国家総動員による戦争協力体制を担った。

連盟が結成された時の模様が、今月のバプテスト誌の表紙に、「当時は食糧事情がひっ迫していたため、遠方からの参加者は各自米を持参し、西南学院教会や福岡教会の会員宅に数名ずつ分宿した。ガリ版刷りプログラムの裏面に尾崎主一牧師の筆跡で“3日am9祈祷会、バプテスト結成決す30名出席、手をつないで祈祷”の書き込みが見える」と記されていた。SBCの兄弟姉妹は、敗戦後の日本の復興のために祈り、多くの宣教師を派遣し、教会形成のために多額の献金を送ってくださった。これらの祈りと、人的・物的・経済的支援を受け、連盟の開拓伝道は力強く推進されていく。連盟は「全日本にキリストの光を」のスローガンを掲げ、まず県庁所在地に伝道所を開設し、その教会が拠点となって周辺都市に伝道を広げる開拓伝道に取り組んでいった。

1955年には、当時米軍の統治下にあった沖縄に「国外」宣教師を派遣し、1965年にはブラジルに宣教師を派遣するなど、国外伝道も連盟の協力伝道の大きな柱として進められてきた。現在までに、インドネシア、タイ、シンガポール、カンボジアに宣教師を、またルワンダには、ミッションボランティアを派遣している。

1970年代、教会の存在意義・宣教を問う教会闘争が起こった。そのような中で、世界で苦悩する人々と共にキリストの福音に生きるための種々の活動が行われるようになり、現在では靖国神社問題、日韓・在日連帯問題、公害問題、部落問題、「障害」者と教会、ホームレス支援、性差別問題の特別委員会が活動している。

現在、全国285の教会、38の伝道所が加盟し、協力伝道を進めている。各個教会は、それぞれ自主・独立だが、バプテストの群れに連なる兄弟姉妹として互いに協力し、励まし合って、一つの教会では出来ない協力伝道を推進している。上尾教会も「自立と協力」に基づくバプテスト教会の形成、協力伝道に取り組んでいきたい。

2016年度を振り返って

一年の歩みをパワーポイントで紹介するために、主だった活動の写真をピックアップした。すると、活動の特徴がよく分かった。まずユースクワイアが大活躍した。毎週の礼拝で賛美をリードしてくれたばかりでなく、事あるごとに、素敵なハーモニーで主を賛美してくれた。ユースクワイアは、まさに天使の歌声であった。

「泉のほとり」もほぼ毎月コンスタントに開かれた。教会員の賜物もいかんなく発揮されて、バラエティーに富んだ内容であった。健康のことや食のことなど、生活に密着したことも楽しく学べて、とても豊かな交わりとなった。参加しないと損になる「泉のほとり」となった。祈祷会後に開かれているので、祈りをもって参加できた。

子どもを捉えるために、「ファミリーコンサート」「プレクリスマス」「キッズクリスマス」を行い、多くの子どもたちが保護者と参加できた。それは今までとは違って、子どもの関心を的確に捉えてプログラムを立てたことが、大きな要因であった。但し、教会学校や礼拝への参加にはつながっていないので、それは今後の課題である。

社会問題にも取り組むことができた。「原発」「靖国」「ホームレス支援」「ルワンダでの和解」「憲法」など講師を招いて学ぶことができ、命が軽んじられていることに気づかされた。「教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。」ボンヘッファー「隣人と共に生きる教会」として、人々の声に耳を傾け、善きサマリア人のように「隣人になる」ことを目指したい。決して、虐げられた人たちを見捨ててはならない。

「平和を祈る」と主題を掲げたように、その祈りが行動へとつながった。憲法集会・パレード、首相官邸前のゴスペルの集い、辺野古キャンプシュワブでの座り込み、普天間基地ゲート前でのゴスペルの集いなどに参加し、平和への祈りと賛美を捧げた。叉、ユースは平和月間で、「戦争体験者」から聞き取り、平和の大切さを証した。

協力伝道にも取り組むことができた。上尾教会で開催した集会では、連合諸教会・近隣教会にも呼びかけ、多くの人が来てくださった。又、連合・連盟の諸集会には働き人を送り出した。そして、青年伝道隊、那覇新都心教会への伝道隊、相互訪問では、証し人として大活躍した。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」Ⅰコリント3:9として、協力伝道の喜びや豊かさを経験することができた。一教会では成しえない宣教の課題を、協力伝道によってこれからも担い合っていきたい。

一年の歩みをパワーポイントで紹介するために、主だった活動の写真をピックアップした。すると、活動の特徴がよく分かった。まずユースクワイアが大活躍した。毎週の礼拝で賛美をリードしてくれたばかりでなく、事あるごとに、素敵なハーモニーで主を賛美してくれた。ユースクワイアは、まさに天使の歌声であった。

「泉のほとり」もほぼ毎月コンスタントに開かれた。教会員の賜物もいかんなく発揮されて、バラエティーに富んだ内容であった。健康のことや食のことなど、生活に密着したことも楽しく学べて、とても豊かな交わりとなった。参加しないと損になる「泉のほとり」となった。祈祷会後に開かれているので、祈りをもって参加できた。

子どもを捉えるために、「ファミリーコンサート」「プレクリスマス」「キッズクリスマス」を行い、多くの子どもたちが保護者と参加できた。それは今までとは違って、子どもの関心を的確に捉えてプログラムを立てたことが、大きな要因であった。但し、教会学校や礼拝への参加にはつながっていないので、それは今後の課題である。

社会問題にも取り組むことができた。「原発」「靖国」「ホームレス支援」「ルワンダでの和解」「憲法」など講師を招いて学ぶことができ、命が軽んじられていることに気づかされた。「教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。」ボンヘッファー「隣人と共に生きる教会」として、人々の声に耳を傾け、善きサマリア人のように「隣人になる」ことを目指したい。決して、虐げられた人たちを見捨ててはならない。

「平和を祈る」と主題を掲げたように、その祈りが行動へとつながった。憲法集会・パレード、首相官邸前のゴスペルの集い、辺野古キャンプシュワブでの座り込み、普天間基地ゲート前でのゴスペルの集いなどに参加し、平和への祈りと賛美を捧げた。叉、ユースは平和月間で、「戦争体験者」から聞き取り、平和の大切さを証した。

協力伝道にも取り組むことができた。上尾教会で開催した集会では、連合諸教会・近隣教会にも呼びかけ、多くの人が来てくださった。又、連合・連盟の諸集会には働き人を送り出した。そして、青年伝道隊、那覇新都心教会への伝道隊、相互訪問では、証し人として大活躍した。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」Ⅰコリント3:9として、協力伝道の喜びや豊かさを経験することができた。一教会では成しえない宣教の課題を、協力伝道によってこれからも担い合っていきたい。

献金とは、信仰の共同体における祈り

献金のスチュワードシップを見事に表しているのが、毎週、週報の裏面に記されている「先週のスチュワードシップ」である。ここには、先週捧げられた献金と献金者名が記されている。先週、この献金の記載について執事会で話し合った。献金額だけで、献金者名はいらないのではないか、という問い合わせがあったからである。その事に対して、一つ一つの献金項目に献金者名が載せられていることは、教会を建て上げるために、多くの祈りが合わされていることがわかり、大変勇気づけられる、もし、献金額だけならば、一部の人だけが捧げているのか、そうでないのかわからず、自分の事として真剣に受け止めなかっただろうという声も聞かれた。又、様々な感謝献金が捧げられていることを知って、神の恵みの豊かさに気づかされ、子供たちも他者のために感謝を表している姿に、深い感動を覚えたとの声も聞かれた。

丁度、祈祷会で「やもめの献金」を学んだ。主は「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。・・・この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ルカ21:3-4と言われた。金額的には、やもめの献金は「レプトン銅貨2枚」とわずかであったが、それは「生活費の全部」であったので、「だれよりもたくさん入れた」と、主に賞賛されたのである。主は、その献金がやもめの生活において持つ意味の大きさに目を留められた。私たちは、「生活費の全部」と聞くと、そんな事をしたら一体どうやって生活していけるのかと、不安になるのではないか。否、「十一献金」でもそう思うかもしれない。しかし、「生活費の全部」を捧げたということは、自分の生活は主が養ってくださるという信仰があったので、全てを主に委ね、精一杯捧げたのである。

献金とは、「信仰の共同体における祈り」である。そこには、一人一人が主の体なる教会の肢体として、「われ何をなして、主にむくいし」との熱き祈りをもって捧げているので、会計報告を見る時、数字と共に、一人一人の祈りを見ることが大切である。すると、共に祈り合うことへと導かれる。長い間臥しておられる松木恂子姉が、毎月「守られて」という感謝献金を捧げているのを見る度に、松木姉が日々主に守られていることに感謝の祈りを共に捧げ、又、「友愛チームに感謝」という献金が捧げられているのを見る度に、送迎などのサービスが信仰生活に大いに役立っていることに、感謝の祈りを共に捧げている。主が御覧になったように、献金が、一人一人の信仰生活において持つ意味の大きさに目を留めて、共に祈り合っていきたいものである。

 

スチュワードシップ月間に思う    青木 節子

この世は、今や横文字だらけです。教会までもと思いきや、特に分かるようで分からないのが、この「スチュワードシップ」という言葉です。

テキスト『神の同労者』には、スチュワードシップとは神の信頼や期待に最善をもって応えることとあります。「太陽も空気も水も、命も家族も健康も仕事も、そして必要の一切が私たちの能力から出たものではなく、御子イエス・キリストの恵みによって与えられていることを、まず第一に覚えたいと思います。」と書かれてあります。

神さまの恵みに対してあなたはどのように応答していますか?それが問われているのだと思います。私は自分の信仰を点検する時として与えられていると思っています。『神の同労者』を読みつつ、思い巡らすことができるのは、本当に感謝なことです。

私の信仰生活、一週間の始まりは、教会の礼拝から。健康が支えられ、礼拝に出席できることは大きな喜びです。宣教によって力が与えられ、兄弟姉妹の証しにも励ましが与えられます。一日は、朝の静聴の時から始まります。聖書日課に沿って、聖書を読み、祈ります。30分から40分ぐらいです。アシュラムに参加するようになって、生活の中で御言葉を聴くことの大切さを実感するようになりました。聖書は読んではいても、深く味わうことの足りない自分に気づかされました。また、遅番の時以外は、水曜日の祈祷会にはできるだけ出席します。教会の祈りの課題、個々人の祈りの課題を共に祈り合えることは、大きな励ましであり、教会を実感する時です。

教会は、祈りによって支え合う愛の共同体だと思います。御言葉をいただき、示された箇所を分かち合い、祈りの課題を出し合い祈ります。夜の祈祷会では、私はたいてい深澤和子姉の隣りです。和子姉は同じ祈りの課題を根気よく祈り続けます。その姿勢にはいつも教えられます。私も平和の実現のため、家族の救いのため、粘り強く祈りを続けようと思います。

礼拝・静聴の時・祈祷会は、私の信仰生活の三本柱です。この三本柱を大切にしつつ、日々歩んでいきたいと願っています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」詩編119:105

賜物はつくられるもの      藤原 俊子

「そうさ 僕らは世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かさせることだけに一生懸命になればいい 」これは皆さんのご存知のSMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞の一部です。それぞれの受け止め方はあると思いますが、私はこの歌は、それぞれの自分に与えられた場所で、一生懸命コツコツと努力をして、そこで独自の花を咲かせることの価値を問いかけているのだと思っています。この歌が、世に出た当初、あたかも競争社会の中で、争うことが否定的にとられ、教育関係でも、運動会でも順位をつけないであったり、読めないで恥をかかせないために国語の音読をさせなくなったり、お遊戯会で主役を一人と決めなかったりと、ゆとりの教育の始まりでした。私としては、思ってもみない方向でした。まず、数学者を例にとると、生まれた時から数学者であるはずがありません。数が好きで自分からどんどん数学ばかり勉強してなった数学者、ある程度周りの環境が整えられていき、小さい時から勉強をさせられ、結果数学がよくできるようになった数学者、というふうにいろんな経過があります。しかし、どちらにしても、先の歌の歌詞の、「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」というように、コツコツと、自分の与えられた場所で、与えられたやり方で相当努力した結果、自分の花が美しく咲くのではないかと思うのです。

教会をみてみますと、実際ハレルヤ食堂で毎回早起きをして、おいしい昼食を準備して作ってくださる方、お掃除で便器をピカピカに磨き上げてくださる方、皆が帰った後でもひとりで厨房をきれいにしていかれる方、友愛チームで車の乗り降りに至るまで足場を作ってくださり手を支えてくださる方がおられます。これは、初めから用意されている才能ではなく、そのお一人おひとりが、他者をいかに大切に考えるかということから出てくる努力の賜物であるのです。奏楽をされる方もそうです。誰も気づかないところで、毎日毎日、努力を重ねてこられたのです。

私には賜物がないと思われている方、そんな時は、神様に問いかけてみてはいかがでしょう。必ず、教会には皆さんを用いてくださる場所があるのではないでしょうか。教会のために何をしたらよいのかと思ってみるだけでも、自然と作られていく賜物がそこにあると思います。私も、用いてくださるものを磨き、賜物に変えていきたいと思います。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ペトロの手紙1 4章10節

献金の恵み            秋山 真実

かれこれ、10年近く、主のために捧げられた献金を管理する会計の奉仕を担っています。

毎週、礼拝後の会計の奉仕は時に大きな負担と感じることもありますが、それ以上に大きな喜びを感じることがあります。私はこの年になって、改めて献金を通して私の信仰は守られてきたのだと感じます。子供の頃、献金は母が用意してくれていた献金袋からお金を取り出して捧げていました。両親の方針なのか、中学生ぐらいから突然、献金袋にお金が入っておらず、自分で献金することを初めて考え始めたのを良く覚えています。恥ずかしながら、子供の時は伝道隊や修養会、キャンプと様々な教会のイベントに参加できるのが、どこか当たり前のような感覚を持っていました。実際に皆様の献金や祈り、大きな励ましによるものだと知ったのは、会計の奉仕を通してからだと思います。

大学生になる時に、江ヶ崎先生ご夫妻に食事に連れて行っていただいたことを思い出します。大学生は今後の学業や仕事の選びなど、信仰生活の大きな分岐点になり、一層教会生活に励むように激励を受けました。また、献金は信仰生活を支える大きな恵みであると話していたのを覚えています。実際にアルバイトや仕事でお金を稼ぐようになり、献金する姿勢が問われた時に、先生の言葉の重みに気付かされました。

上尾教会で過ごして29年、自分では想像のできない主の御業を感じてきました。新会堂が建ち、多くの兄弟姉妹と一緒に、本当に大きな恵みをいただいてきました。献金の大切さ、恵みを分かち合ってきたからこそ、私たちの信仰生活が支えられているのだと思います。会計の奉仕を通して、そのように感じることができ、感謝しています。今、私たちは牧師館建築という大きな課題を主から与えられています。共に祈り、喜びを持って献金をしたいと思います。そして、主の御業を共に待ち望みたいと思います。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。“イザヤ書43章19節

御言葉に聞く習慣を養う    長 佑一郎

今年度も終わりに近づき、教会では総会に向けて一年間を総括する時期になりました。私としては、北関東青年会の一年間の行事も終わり、少し気が抜けてしまう時期です。同時に、忙しい年度末ですので世の中のことに関心が向いてしまい、御言葉に対して耳が鈍くなってしまう時期でもあります。改めて、生活の中でどのような習慣を中心にすべきかを明確にしないといけないと思うこの頃です。

私たちの心が他の目的で占められていると、キリストが心に宿る隙間はありません。社会の関心事ではなく、まずは、御言葉に目を向ける必要があります。そして、生活全体がキリストに基づいたものとなるよう、御言葉をしっかりと土台に据え、良い習慣を身に付けていくことが大切です。クリスチャンである私たちが、この社会の中で時間を作って御言葉に学び、良い習慣を身に付けることは大切なことですが、忙しい生活の中ではなかなかできないことです。大きな実を収穫するため、信仰の成長のためにも時間を作って御言葉に学んでいけたらと思います。習慣を身に付けるためには、内面を変えていくことが大事になります。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章16節)

この聖句では、「キリストの言葉が心の内に豊かに宿るように」と教えられています。「互いに」と言われているように、教会生活を通して教会の方々と共に過ごす中で、私たちの内に御言葉が豊かに宿ることができます。祈祷会や教会学校で互いに御言葉から学んだことを聞き合い、共に賛美を歌い、主に感謝を捧げることが勧められいます。

もうすぐ春になり、イースターが待っています。新年度にどのような嬉しいことが待っているかを楽しみに、心を新たに教会に行きたいと思います。