週報巻頭言

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最上のわざ 

最上のわざ

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み

しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し

従順に、平静におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけてもねたまず

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも 親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物

古びた心に、これで最後のみがきをかける

まことの故郷へ行くために

おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と。

上記は、ヘルマン・ホイヴェルス(カトリックの神父、上智大学元学長)が書いた『人生の秋に』に紹介されている「最上のわざ」という詩である。「老いの重荷」は「神の賜物」として与えられているという。さらに私たちには、神が最後まで残してくださった「祈り」という「最上のわざ」を捧げることができるという。この一言一言が心に沁みてくる。人生の最終段階において、たとえ何もできなくなったとしても、最後まで祈りを捧げることができるということは、何と感謝なことか。「病気で寝たっきりになっても、私にはやることがあって、これでも毎日忙しいですよ。」と、お見舞いに行った方から言われた。お聞きすると、毎日、御言葉を聴いた後に、信仰の友のために、教会のために、人々の救いのために、一時間は祈るとのこと。「美しく老いる」という言葉があるが、この方の生き方は、まさにそのように年を重ねる姿ではないか。「最後まで合掌できる」私たちも、このように年を取りたいものである。

あなたの未来には希望がある

今、「聖書日課」を通して、エレミヤ書を学んでいる。エレミヤは祭司の子として生まれ、紀元前627年から約45年間、活動を続けた預言者であった。その期間は、北王国を滅ぼしたアッシリヤの攻撃が南王国ユダに迫ってきた頃から、バビロンによって滅ぼされる時(前586)にまで及んでいる。つまりユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた時代、まさに動乱の時代に神の言葉を語ることがエレミヤに託された使命であった。それ故に、背信の民である同胞から非難され、迫害され、投獄されるが、その同胞と共に運命を共有しようとした。エレミヤは「涙の預言者」と言われるほどに、悲しみを体験した預言者でもあった。

そのようなエレミヤが、祖国が滅ぼされ、多くの同胞が殺され、捕囚となった破局の只中で、希望を語ることさえ躊躇われる中で、「あなたの未来には希望がある」と宣言するのである。すべてを失って茫然とする人達に向けて、もはや生きる希望も未来もないと嘆き悲しむ人達の傍で、泣く声が聞こえるその只中で、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられると、主は言われる。あなたの未来には希望がある。」エレミヤ31:16-17(抜粋)と、神からの希望の言葉を伝えるのである。

しかし、その言葉は悲嘆にくれる人々には理解されなかった。エレミヤは激しい非難にさらされて孤立する。彼もまた苦悩に満ちて嘆き悲しみ、涙する。「泣くな。目から涙をぬぐえ。苦しみは報われる。希望はある。」という慰めは、誰よりもまずエレミヤその人をも励ます言葉であった。彼自身がこの言葉によって支えられ、未来に希望を抱いて立ち上っていればこそ、彼はこの言葉を人々に伝えずにはいられなかった。

エレミヤが生きたのは今から2600年前だが、その時代の人々と同じように、現代の私たちも、経済力や政治力、軍事力こそが要であると考えて、神によって生かされていることを自覚して慎み深く生き、お互いを大切にすることを疎んじて生きてはいないだろうか。人はとかく自らの力のみに依り頼み、それが危うくされると無力感にさいなまれ、希望を見失うのである。そうであればこそ、私たちは命の源である全能の神に揺るぎないご支配があることを心に刻み、「あなたの未来には希望がある」と告げる神に応えて、その責任を果たす者でありたい。「それ(知恵)を見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」箴言24:14。畏れと慎みを知る真の知恵ある者には、未来があり、希望がある。その希望を抱いて生きていきたい。

 

ヨベルの年に向けて

旧約聖書のレビ記には、「ヨベルの年」が定められている。この「ヨベル」とは、角笛のことで、年の初めに、角笛を吹き鳴らすことからそう呼ばれた。その音は、多くの人にとって解放の知らせであった。「この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。」レビ記25:10。ヨベルの年がやってくると、負債は解消され、失った所有地も戻り、奴隷の身分になっていた者も自由の身に解放される、喜びの年、恵みの年である。人生のリセットが定められているのである。

上尾教会は来年、開拓50周年を迎える。1971年1月11日に、大原宅で開拓伝道が始まった。まさに上尾教会にとっては、来年がヨベルの年である。もちろん、今ある負債が解消されるという意味ではない。(そうであればよいのだが‥・)。かつて罪の奴隷であった私たちが、主の贖いによって赦され、神の恵みに生きる者にされたことを振り返る、喜びの年、恵みの年である。何度も不信仰に陥る私たちを、イスラエルの民に対するように、神は昼は雲の柱、夜は火の柱となって忍耐強く導いてくださった。その恵みに感謝し、新たな出発の時にしたいと願っている。

今年、コロナ禍の中で、信仰とは何か、教会とは何か、礼拝とは何か、私たちは立ち止まって深く考える時が与えられているのではないか。「ステイホーム」と叫ばれる自粛期間も、又、Go To トラベルキャンペーン」で出かけることが奨励される現在も、私たちは「ステイチャーチ」を選び取っている。それは、一途に「神を喜ぶ」ことを大切にしたいと願っているからである。神を喜ぶことこそ、今日を生きる力となるので、礼拝を第一とするのである。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ記8:10

「神を喜ぶ」ということは、「神を喜ばせる」ことではない。アシュラムで中谷哲造先生の語られた言葉を思い出す。中谷先生が赴任した教会の過去を振り返った時、教勢が急激に減った時期があった。その事を調べていくと、教会員は様々な奉仕活動には熱心に励んでいたが、御言葉を聴くことには疎かであった。「主を喜ばせることに熱心」ではあったが、「神を喜ぶことには熱心」ではなかった、そこに信仰から離れていく原因があったと指摘された。これは私たちの教会でも過去に起った教訓である。「必要なことはただ一つだけである。」ルカ10:42と、マリアのように、御言葉に聴き入ることを主は私たちに求めておられる。その事を、今日の礼拝から始めたい。

伝えていく義務         教会員

私の母は、1932年(昭和7年)生まれの87歳である。女学校1年生の時に第2次世界大戦の日本の終戦を迎えた。母は、戦争の無情さ、無意味さ、苦しみ、腹立たしさを吐露する。母は、物心ついたころから軍事教育を受け、国民学校5,6年生より教育勅語を唱え、歴代天皇を覚えさせられる。未だにそらんじる母を、気味悪く思う。天皇陛下が現人神だという洗脳教育がなされていき、学校では、毎日「御真影」を拝む。そして大阪で8回にもわたる大阪大空襲に遭遇した。夜間低空爆撃で住宅密集地を標的にされたり、ナパーム弾(大型焼夷弾)をはじめたくさんの焼夷弾が落とされ、大火災が起こったり、転がった死体の上を踏みながら戦火を逃げ惑ったり、一晩中溝で身を潜めたりなどという体験をする。なかでも6回目の大阪大空襲では、母の住んでいた堺をねらった堺大空襲を経験し、それは、大阪南部の都市を一夜にして焼け野原にした。その時に戦闘機の機銃掃射をした操縦席の若い米兵の顔をはっきり覚えているそうだ。彼は、操縦かんを握りゲームのように機銃を打って行ったのだろう。戦争は、理性を動物的な脳に変えていく。花火を見ていつも焼夷弾を思い出し怖がる母を気の毒に思う。

戦争中は、都会では食べるものがなく、体力や思考は限界であったという。栄養失調の中、友との挨拶が、「生きていたらまた逢いましょう。」であったという。大阪では、この空襲で1万人以上の一般市民が死亡し、生き残ったことが奇跡に近い。

さて、今コロナ禍で期限のない恐れ、見えない敵との闘いの只中である。戦争を体験したり、震災を経験したり、新型コロナの世界に遭遇する母の人生を不幸の連続だといっていいのか。いや、それらを通して、本当に大切なものを神様から教えられた母は、ある意味神様に愛されてきたのではないだろうか。この新型コロナで世界中の人々に、「争っている場合ではない。世界が一つになれ!」と神様が警鐘を鳴らしておられるのではないかと思う。やがてこの新型コロナウィルスも抑えられる時が来たら、「死」と向き合った世界中の人々が、本当に大切なものが何であるかを知ることができますように、傷つけ合うより赦し合う世界が来ますように祈りたい。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書16:33

 

#もし75年前にSNSがあったら    教会員

「もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?NHKでは、終戦の年(1945年)に広島で書かれた日記をもとに、75年前の暮らしをTwitterで毎日発信中です。」(広島放送局HPより抜粋)

7月末、この「1945ひろしまタイムライン」というツィッターを知った。早速フォローすると、1945年を生きる新聞記者の一郎さん、主婦のやすこさん、中学一年生のシュンくん(実在した方がモデル)達の呟きが2020年のツィッターに混ざって出てくるようになった。企画物であるとわかっていても、この3人のツィッターを読む時はまるでタイムスリップした感覚になる。しかし私は8月6日に何が起こるかを知っている。前日のツィッターは読む度に「あぁどうしよう、それどころじゃなくなるのに」と落ち着かない気持ちだった。翌朝、「今日もよく晴れている」などの呟きが出る度に心臓がバクバクした。そして「その時」の瞬間の呟きは「ん?」「えっ」…。

やがて混乱、動揺、惨状、家族や友達を心配するツィートがどんどん入ってきた。そして2、3日経った頃の「何だかだるい」「熱がなかなか下がらない」という呟きに、2020年の私は被曝のせいではないだろうかと心配なのだが、当の三人は身体を休めつつ、自身の為すべき仕事に戻ろうと必死だ。

このツィッターは今年いっぱい続くのだそうで、今も実在の日記の日付けに沿って呟きが流れてくる。中でも興味深いのは、やすこさんの心境である。妊娠中のやすこさんは、お腹の赤ちゃんの成長を心配したり、これからの世の中、この子は授かって良かったのだろうかと不安に思ったりする反面、8月15日の敗戦を知った時には「最後の一人になっても戦うんじゃなかったのか」と悔しがる。「命」について両極端な印象を受けるやすこさんのツィートに、私は誰しも持っている危うさを感じた。1945年の三人も2020年の私達も同じように今を一所懸命に生きている。しかし、どの一所懸命を選択するかで未来は変わるのだ。奇しくも今、私たちは日々選択を迫られつつ過ごしている。それは未来に何を残しているのか。私は「主に在る平和」に立って選びとって行きたい。

「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。」(平和の祈りより)

キリストの平和         教会員

例年八月の平和月間は、争いのない世界が実現しますように、また、隣人と平和に共存していくことができますように、皆で祈りを合わせる時と思ってきた。今年はコロナウイルス感染拡大に歯止めがかからず、世界が先の見えない不安におびえている。改めて平和とは何か問われている。

聖書には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」エフェソ2:14と書かれている。平和の土台はキリストである。どういう事だろうか。自分の信仰生活を振り返ってみる。信仰生活の初めにおいては罪を悔い改め、キリストを救い主と信じ、神の赦しを実感した。年月を経て、「キリストの十字架わが罪のためなり」の思いが軽く弱くなってきたのではないのか、日々悔い改め、十字架を仰ぐことが形式化しているのではないのか示された。天地の創り主なる神の存在も、時として自分の願いを叶えてもらう小さな存在にしているのではと思わされた。神は全知全能であり、歴史を貫きその御業をなしたもうお方、私たちはその御業のために用いていただく存在である。神の偉大さ、清さ、十字架の死を通して、神と罪人たる私たちを和解させてくださったキリスト。その十字架の広さ深さを思わずにはいられない。

教会は、キリストをかしらとするキリストのからだである。私たち一人ひとりはその肢体である。十字架の恵みを安価な軽いものにしてはいけない。キリストを土台として平和を祈る者でありたい。教会はこの世のただ中にあって世に属さず、クリスチャンもこの世のただ中に遣わされているが、キリストのものとされている。

私は礼拝には出ています、祈禱会にも出ています、毎朝聖書を読み祈っています、それだけでは自己満足の信仰生活ではないのか問われているように思う。仕事も退職し、今、さまざまに問い直す機会が与えられ、感謝である。そういう中で改めてアシュラムの働きにすごさを覚えている。御言葉への聴従、御言葉に聴き従うこと。自己中心的な信仰から神中心の信仰生活へと転換をしていきたい。主に希望をおき、キリストの平和の実現のため祈っていきたい。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

エレミヤ書29章11節

石を投げてはならない            教会員

皆さんの記憶にも新しいと思いますが、7月に母親が3歳の娘を家に残して旅行に行き、残された娘が餓死をするという事件がありました。あまりにも可哀そうで胸が引き裂かれそうでした。当然、ネット上ではこの母親に対して誹謗中傷の言葉が溢れ、まるで悪魔のように取り扱われていました。私もこんな人に母親になる資格はないと思いました。しかし、自分の母親っぷりを思い返してみたとき、私は決して彼女を責めることはできないと思いました。もし私もたった一人で子供を育てていたとしたら、どうなっていたかはわかりません。何度「ママ」でいることから逃げたいと思ったことでしょう。一人になりたい、自由な時間が欲しい、これは子育て真っ最中のお母さんなら、誰でも思うことではないでしょうか。もちろん彼女が犯してしまったことは、取り返しのつかないことです。しかし、彼女を責めるだけでは何も解決しません。

近年、こうしたネット上での誹謗中傷は社会問題になっています。場合によっては相手を死に追いやることもあります。私たちの言葉は剣よりも鋭い凶器になる可能性があるのです。顔見知りであれば言わないようなことも、相手が誰だかわからないのをいいことに、精神がボロボロになるまでひどい言葉をあびせ続ける。ここには人間の罪深さがよく表れていると思います。

現在、日本は、基本的人権が憲法で保障されています。しかし、私たちはハラスメントや差別、誹謗中傷など、手でつかむことができない空気や言葉による攻撃に怯えながら生きているように感じます。冒頭でお伝えした事件について色々と考えたとき、イエス様の言葉がふと頭に浮かびました。ヨハネによる福音書8章は、「姦淫の罪を犯した女」の箇所です。周囲の人々が石打の刑を望む中、イエス様はこう言われます。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」このイエス様の言葉に、平和を創り出す者として生きるヒントが隠されているように思います。自分のことは棚に上げ、何か気に食わないことがある度に相手を責めていては、いつまでたっても平和な世界は訪れないでしょう。まずは自分自身の行いに目を向け、投げかける言葉をよく吟味し、相手の気持ちに寄り添う。そういう人になりなさいと、イエス様は今日も語り語りかけてくださっていると思います。

イエスは再び言われた.。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」ヨハネによる福音書8章12節

 

 

平和月間を迎えて―平和を作る試み    教会員

コロナ感染は増えたのだろうか?と不安を感じながらスマホやネットで確認するのが日課になった。オンライン授業をしている大学等を除いた小・中・高校とも再開されている最近では、各自が意識しながら感染を防衛している。

戦後75年過ぎて、世界は平和を願いつつ歩んでは来たものの、経済中心の競争社会が頂点に達して混沌とした有様でもがき行き先を見失っている気がする。結果、自然破壊も頂点に達し人間性喪失に支配され誰もが孤独に過ごし、『戦争』と名付けられなくても内実的に冷え切った世界を生きているのかも知れない。はからずも新型コロナ感染症で世界中が試練の中に置かれ始めたが、そんな中、教会では平和月間が設けられて、今を見つめなおす時が与えられて感謝である。

世界中の感染状況に胸ふさぎながらも身近なところでは、感染を経験しなかった近所や教会に繫がる家族などでも、自粛生活や様々な不安感からくるストレスから逃れるのは困難を極めた試練だと思う。しかし薄々ではあるが、多くの人は身近な人々との共存を願い、物に支配されない人間性の回復を模索し始めていると思う。すっかり孤独になって寂しい社会から、生身の体・心・魂をさらけ出していいのだと気づき始めてはいないだろうか。孤独をスマホやネットで埋めるのではなく、しばらくは「三密」を避けるスタイルでも生身の体・声・言葉を交わし始めることが必要である。それは共存とか、助け合い、隣人愛ともいえる。ぶつかり合いもあってもいい。

ただし、最も見失っていけないのは「自分」である。一人一人が神様に創られた人格である。特質も弱さもある素晴らしさは、一緒に・共に生きれば活かされると思う。一人一人が「自分」を持ち、各々心に「自分の領域」を与えられている。「自分の領域」は「自分」しか分からない。話す相手やコミュニケーションをとる相手にお互い誤解を感じたら(「自分」の領域を踏みにじられたと感じたら)きっぱりと違うと伝える。伝えないと、例えば足を踏んづけている相手に痛いですよと言わないのと同じで伝わらないし、「自分を曲げる」結果になり、痛みから解放されることはない。一人でできなければ大声出して他に助けてもらってもいい。話し合いなど繰り返し助け合う時、平和の主が助けて解決してくださる。

「戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。」箴言19章16節

 

 

神の栄光のために

私がバプテスマを受けた時、教会の方々からお祝の言葉が記された色紙を戴いた。その言葉の中に、「恥はわがもの、栄光は主のもの」とあった。私はこの言葉にいたく感激して、「私の人生は、恥をかいてでも、主に栄光を現していこう。」と決意した。あれから、半世紀が経ったが、今もその決意は変わることはない。神は、私の罪深さや過ち、失敗や弱さを用いて、栄光を現してくださるのである。なんと感謝なことか。

私たちの人生の目的は何か、『ウェストミンスター小教理問答書』では下記のように記されていた。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と、人間の生きる目的を、「神の栄光をあらわすこと」「永遠に神を喜ぶこと」であると語る。そして、「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。」と、聖書の御言葉こそ唯一の指針であると語る。

「神は御自分にかたどって人を創造された。」創世記1:27。「わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」イザヤ43:7。私たち人間は、自分の栄光を現すためにではなく、神の栄光を現すために創造された。つまり、神がいかに偉大であり、聖く、力強く、慈しみ深いお方であるかを、私たちの人生を通して現し、神を喜びとし、主を賛美していくことである。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」Ⅰコリント6:20。つまり、主の十字架の贖いによって救われた人生を用いて、神の栄光を現す生き方をすることである。それは自分の力だけではできないが、私たちの内に働いてくださる主の力によってできるのである。

私たちは教会生活で、神の栄光を現そうとしてはいないか。礼拝を捧げ、祈りを捧げ、献金を捧げることは、神の栄光を現すことであるが、それだけでは不十分である。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:31「食べるにも、飲むにも、何をするにも」とあるように、生活の隅々にまで、神の栄光を現して生きることが求められている。飲食が普通にできるならば、神の栄光を現すことも普通にできる。日々の生活のただ中で、家庭で、職場で、地域で、人々との関わりの中で、神の栄光を現すことが求められている。神の栄光のために、私たちにできることは沢山ある。神を喜ぶとは何か、真剣に求めたい。そして、神の栄光のために、人生を明け渡していきたい。バッハが楽譜の最後に「ただ神の栄光のために」と記したように、私たちの人生もそう記したいものである。

 

イエスこそ私たちの主

アシュラムでは、「イエスは主なり」という挨拶をよく交わすが、この挨拶は、アシュラムの専売特許ではない。初代教会では、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」フィリピ2:11と言って、「イエスは主である」と呼んだ。又、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9と言って、救いにあずかるために最低限必要な信仰告白の内容が、「イエスは主である」であった。

「イエスは主である」とは、私たちとってどんな意味があるか。第一に、私たちに希望と慰めを与える。『ハイデルベルク信仰問答』「生きている時も死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」の問いに対して、その答えとして、わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。とあった。人間の最大の問題は、聖書によると、罪と死である。罪は死という結果を招き、誰も死から逃れられない。しかし、主は天と地の一切の権能を持っておられるので、罪も死も私たちを神の愛から引き裂いて滅ぼすことはできない。生きている時も死ぬ時も、主は私たちを捉え、私たちを何ものにも渡されない。

第二に、私たちは主イエス以外の何ものをも主とせず、それに従わない。イエスを主と告白することは、私たちの身も魂も主のものであり、主イエス以外に私の主人はいないという意味である。しかし、この世には、私たちを支配し、私たちの主になろうとするものがいっぱいあるのではないか。気をつけないと、仕事や趣味や娯楽が方が主になり、いつの間にか時間も体も心も奪われ、信仰生活が二の次になることが起こり得る。「イエスは主である」とは、「イエスこそ主である」という告白であって、「イエスも主である」という告白では決してない。「イエスは主なり イエスは主なり 仕えまつらん ひたすら 主なるイエスに」新生讃美歌287を、わが信仰告白として賛美したい。

第三に、「イエスが主である」との告白が、教会の正しいあり方を教える。『使徒信条』では、「私の」主イエスではなく、「我らの」主イエスと語る。私たち一人一人は主を信じても、意見の相違が起って、誤解を生んだり、対立することがある。しかし、主イエスに対する信仰を失わない限り、トラブルが起きても、修復できる。一番大切なことは、「イエスこそ私たちの主である」という信仰である。これさえあれば、少々のことがあっても、教会は立ち続ける。「我らの主イエス・キリストを信ず」を大事にしたい。