週報巻頭言

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最上のわざ      

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み

しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し

従順に、平静におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけても妬まず

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役たたずとも 親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物

古びた心に、これで最後の磨きをかける

まことの故郷へ行くために

おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「子よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と。

上記は、ヘルマン・ホイヴェルス(カトリックの神父、上智大学元学長)が書いた『人生の秋に』に紹介されている「最上のわざ」という詩である。この詩は、ホイヴェルス神父が、故郷の南ドイツに帰った時、友人から贈られた詩だそうだ。

年を老い、何もできないと思えるような人生の最期に、「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。」と言う。ここで「最後に残してくださる」と言われていることに注目したい。人生を好き勝手に生きて、何もできなくなった時に、それではこれから祈りでもしようかということではない。そうではなく、常日頃から祈る生活をしていく時に、他のすべてのものが取り去られても、残してくださるものがある、それが祈りだと言う。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために」祈ることこそ、私たちの人生における最上のわざである。なぜなら、神はその祈りに応えてすばらしいことをしてくださる。私たちは、いつも祈る生活を心掛けたい。

 

平和のためにしてきたことは人生の道だった    教会員

1945年終戦翌年生まれの私が、いくらか戦争に繋がる感覚として覚えているのは 8歳頃の事です。戦後落ち着きを戻した日常もあり、宮城県古川市の七夕祭りも行なわれ町まで見物に行くと、傷痍軍人の奏でるアコーディオンやハーモニカの響きに胸がふさぎました。生活のためだと聞かされた。他方、難病の兄しか口にできない高価なバナナ売りの声も混じっていた。輸入ができるようになったのかも知れない。七夕飾りは美しく揺れていた。また、母は時々、父が戦地から(と言っても、外地に行く直前に終戦)持ち帰ったカーキ色一色のゲートルや外套を見せてくれて、安堵のような気持ちが母から伝わったことなど、覚えている。

中学、高校ではあまり戦争や平和について論じ合う仲間はいなかった。むしろ人生の虚無を個々に漂わす空気は流れ始めていた。高卒後神学校に入ったが、社会人からの学生もいて、折りしも靖国法案が叫ばれ、クラスメイトと一緒に法案反対のために、国立駅前で法案反対の署名活動を始めた。又、特にキリスト教史の得意な親友がいて(後に日本改革派の牧師と結婚)、卒業後も 度々、意気投合し反対運動に参加した。

やがて結婚して子どもも生まれ家族で法案 反対デモに参加した。おんぶしたり、ベビーカーを押したりしながら浦和から東京へ。しかし、子どもが6人与えられ育児で忙しく東京への参加は無理になり、気持ちだけが膨らんだ。子ども達を靖国の英霊にするわけにいかないと焦るばかり。南浦和在住の神学校の恩師に相談すると、自分の近くで始めるよう助言されたがそのままに終わった。やがて靖国法案は廃案になったが、日の丸・君が代、国旗・国歌法案が提出され、再び、親友と連れ立って反対デモで、国会前で雨の中でも座り込みながらチターをならし賛美歌を歌った。信仰の自由、平和、子どもを戦争に送らないと祈りつつ賛美した。国会内の傍聴席にいたが、法案が成立した瞬間、「はんたーい!」と叫んだ女性は即座にだ捕された。高崎から80過ぎた母親と、産婦人科医の仕事を休んで参加していて、いつも一緒に座り込みに参加していたので心配したが数時間後開放された。

平和のためにしてきたことは、私の人生だったなと思える。人々との出会いが与えられ 叫び、祈った人生に神は応えて下さった。そして今、最も身近な上尾教会の多くの方々と平和のために出かけたり、辺野古カレーを食べたり、祈祷会で心一つにしてお祈りできる。御言葉を信じて祈り、平和を先取りしたい。子や孫達のために。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9

 

平和とは何かを考える    教会員

“平和”とは一体何でしょうか。広辞苑に載っている意味は2つあり、1つは、

”やすらかにやわらぐこと。おだやかで変りのないこと。”もう1つは、”戦争がなくて世が安穏であること。”となっています。

NHK番組「クローズアップ現代」では『戦争とテロ』というテーマで、子供たちから戦争に対する様々な疑問が挙げられていました。なぜ意見が違う時に話し合いではなくて戦争を起こすのですか?ミサイルを飛ばして、得する人はいるのですか?人を殺して何になるの?

戦争の理由には、様々な背景があると思いますが、よく言われるのが、資源・エネルギーの確保や土地、文化の違い、宗教間の争いなどであります。多くの国がお互いに平和を望んでいる一方、軍事力拡大や周囲への警戒・威嚇を起こす矛盾の世界に私たちは生きています。なぜ、私たちはお互いに争うのでしょうか。

私たちの日常生活でも、争いや妬み、悲しみに溢れています。イジメや虐待、差別や偏見、様々な暴力をニュースや身の周りで日々感じています。自分は関係ない、大丈夫と思う人もいるかもしれませんが、私も含め、憎しみや悲しみに心が支配され、気が付かないうちに周囲の人を言葉や行動で傷つけているのだと思います。

子供の時には、”ありがとう”や”ごめんなさい”と素直に相手に言えて仲直りできていたはずが、自分の非を認めず、周囲の人に無関心になったり、相手を攻撃したりするのではないでしょうか。恐ろしいことに、私たちは、いつの間にか、相手の顔を見ようせず、自分中心の生き方になっているのだと思います。まさに、平和とは自分自身の憎しみや悲しみに立ち向かうことなのではないでしょうか。

教会生活を通して、私は神様を知り、神様や家族、友人に多くの愛や赦しをいただいていると感じています。私自身、罪多き者ではありますが、「平和の祈り」の通り、「愛されるよりも愛することを、赦されることよりも赦すことを」望む人であり続けたいと思います。矛盾のある今日だからこそ、隣人を認め、赦し、共に平和を実現する者として歩んでいきたいのです。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」コロサイ3:12‐14

 

戦争はしない          教会員

今、私は一枚のカードを見つめている。そこには、少年が赤ん坊を背負い、背筋を伸ばして立っている姿がある。少年は、歯を食いしばり一点を見つめている。このカードを見ていると、心が張り裂けそうになる。

以前カトリックで葬儀があったときに、テーブルの上に積まれていたカードに何気なく目をやった私は、動けなくなった。それを見ていたカトリックの姉妹が「どうぞ持って行って」とくださった。これは、ローマ法王が核兵器廃絶を繰り返し世界に強く訴えられ、今年の1月に、有名な長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードに印刷し、裏に「戦争が生み出したもの」という文言と、自身の署名「フランシス」を記載するよう要請し、毎年1月1日に祝われるカトリック教会による「世界平和の日」に先立って配布されたものであった。

亡くなった弟を背負い、焼き場で順番を待つ少年。少年は、穴を掘っただけの焼き場で、白いマスクの大人に赤ん坊を手渡し、目の前で弟は荼毘に付される。アメリカ占領軍のカメラマン、ジョセフ・ロジャー・オダネル氏が撮影したもので、彼のコメントがある。「それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。」

平和を訴えるなら、何も語らず、この写真一枚で十分だと思う。戦争とは、こういう事なんだと感じてくれさえすればよい。戦争とは、弱い者が犠牲になる。大切な家族を失う。これから、日本では戦争を知らない人たちだけになる時がくる。私も、戦争を知らない。しかし、急激な世界の国同士の自国ファーストの連鎖は止まらず、自国主義のアメリカにくっつき、アジアの中でも孤立をする日本は、決して安泰ではない。一触即発の関係は、さらに心無い政治家の発言で、より危険になる。だからこそ、今私たちは、過去の戦争に至った過ちを心に刻み、世界各国に戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを訴え、平和憲法を掲げ、世界の皆が平和になる道をリードしていくべきではないだろうか。

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』ルカよる福音書10章27節

平和を尋ね求め、追い求めよ  教会員

今年の4月から長女が小学校に入学しました。ランドセルがカラフルになったり、黒板が電子になったり、時代の変化を感じます。その中でも特に変わったと思うことは、子供を取り巻く治安の悪化です。

小学校でまず初めに配られたのは、防犯ブザーでした。そして、登下校は一人にならないように、班が組まれており、通学路には至る所に大人が立って見張っています。もちろん交通事故から守るためということもありますが、不審者に対する抑止力という意味合いもあります。また、昔は服に名札を付けていましたが、現在では名前を覚えられてしまわないように、名札は学校内にいるときにしかつけていません。

自分が子供だった時を思い出すと、もっとのびのび自由に外出できたように思いますし、子供だけで遊びに行くこともしょっちゅうだったと思います。しかし、今同じように、娘が大人の同伴なしで出かけるというのは怖くてとても送り出せません。

今年で敗戦74年、これからの子どもたちにとっては、戦争体験を直に聞く機会もどんどん減り、「戦争」というものを遠くに感じてしまうかと思います。ただその一方で、昔とは違い、普段の生活の中でもいつ何時事件に巻き込まれるのでないだろうかという危機感をもたされ、行動が制限されていくことが予想されます。来年にはオリンピックも開催され、テロ対策という言葉が頻繁にメディアから流れてくると、ますますこの国の治安は悪化していっているなと残念に思います。

戦争さえしていなければ平和なのか?そうではありません。ここ数年、無差別事件が後を絶たず、顔も見たこともない人に命を奪われるという至って理不尽なことが起きています。いじめ、虐待、差別、命までは奪わなくとも、尊厳や人権を踏みにじる行為が起きています。

これからの時代を生きる子供たちへ、私たち大人には責任があります。自分たちが生きた時代よりもさらに住みやすく、安心な社会を築いていく責任があります。そのためには私には何ができるのか。神様から知恵と力をいただくしかありません。神様の愛という最強の武具を身に着けて、平和の使者として歩んでいきたいです。

「悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ。

主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。」詩編34:15-16

八月平和月間に思う       教会員

国と国の間は平和であってほしい。人と人の間も平和であってほしい。誰しも思い願っている。日本は世界に冠たる素晴らしい平和憲法を持っている。しかし、この憲法にそって歩んでいるとは言い難いのが現状である。

連盟の平和宣言、2018年「バプテスト誌」5月号掲載の城倉牧師のメッセージ、日本国憲法前文と第9条をよく読んでみた。何よりも聖書のみ言葉に思いを巡らしてみた。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイによる福音書5章44節、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」マタイによる福音書5章9節。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」イザヤ書2章4節、等々、イエス・キリストは報復を禁じ、敵を愛しなさいと教えられた平和の主である。

平和宣言には「教会は戦争の価値観を否定する。教会は戦争に役に立たない群れとして生きる」とある。城倉牧師は「憲法9条は、制定時の解釈に立つと、個別的自衛権の否定と非武装をその趣旨としていること。在日米軍も自衛隊も9条で禁止されている武力の保持である。」と解釈している。また、城倉牧師は「自衛隊は軍隊ではなく災害救援隊として全世界に派遣されることで、平和を創り出す働きができるのでは」と提案している。正論と思う。

個別的自衛権はおろか、2014年には集団的自衛権も閣議決定され、日本はいつでも戦争ができる国になりつつある。国の歩みは平和を創り出す方向と反対の再軍備の道を歩んでいる。先の戦争で多大な犠牲を強いられた沖縄から米軍基地をなくすことは.日本全体の課題であるにも関わらず、県民の意志を無視して、辺野古に新基地を作ろうとしている。民主主義国家でありながら、県民の意志は無視されている。

このような世の中の流れに逆らって、平和を創り出す方向に歩むのは勇気がいる、決断がいる、信仰がいると思う。戦争に役に立たない人として生きるには覚悟がいる。その覚悟が求められていると思う。教会の子供たち、保育園の子供たち、すべての子供たちの未来が平和でありますように。祈らずにはいられない。

 

平和のたね          教会員      

 神よたまえ 平和を 神よたまえ 平和を

今 平和を われらに平和を 今 平和を われらに平和を

八月のテーマ賛美として上尾教会は、この「平和をわれらに」を一ヶ月間通して賛美いたします。

私がこの讃美歌と出会ったのは、月に一回行われている「首相官邸前でゴスペルを歌う会」です。輪唱にもなるこの賛美は、繰り返せば繰り返すほどにメロディと歌詞が折り重なって美しく響き、リードされる平良愛香牧師は5分近く、もしかしたらそれよりも長く輪唱を止めることなく何度も何度も繰り返され、そのうちにこの賛美の渦が官邸前の大きな交差点にどんどん広がっていくのを感じます。

原曲は「ドナ・ノービス・パーチェム」というラテン語のミサ曲で、神様に平和を願うこの賛美は、世界中で歌われているのですが、それぞれの国が背負ってきた歴史の中で願う平和は少しずつ形が違うかもしれません。しかし、自分の、我が子の、家族の、大切な誰かの、今日一日の幸せを願うとしたら何を思い浮かべるでしょう。安心して眠れて過ごせる場所がある、食べる物と食べる元気がある、笑える、泣ける、喜ぶ、怒る…。そんな当たり前のような日常の、そのどれか一つでも欠けたらと想像してみると…生きていくのはとても辛そうです。そんな当たり前のような日常が、実は人が人として生きていくためにとても大切で、その中に「平和のたね」がいっぱい詰まっているとしたら?

もっともっと沢山ある小さくて見落としそうな「日常」がとても愛おしくなります。「日常」の中に詰まっている平和の種が芽を出し、花を咲かせ、実を付ける。その実を喜び、そこから取れるたねを次の世代に渡していきたいと願うのです。平和のたねを育てていくために、人はもちろん、私たちが生きているこの地球も元気でなくては豊かな実りを得ることは難しいでしょう。

だから、今、忙しさの中で立ち止まって、それぞれの日常の中の平和のたねを見出し守り育てていきたいのです。

海も空も本来の姿であるように。私たちの中にいっぱいある「平和のたね」が沢山の実を付け「今」を生きていけるように。そして次の世代に平和のたねを渡していけるように。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9

孤独からの回復  秋山 義也(瑞穂教会牧師)

「孤独」が深まり、「自分はいてもいなくても同じだ」「他者を殺して、自分も死ぬ」という声がカタチとなった悲しい事件が続いています。事件を起こす前に、誰か一人でもいい。「あなたは一人ではない」「あなたに生きて欲しい」という声かけがあったら、どうだっただろうか、とふと思います。

「孤独」について共に学びたい。知的障がい者と健常者との共同生活の家「ラルシュ共同体」創設者であり、カトリック信者ジャン・バニエさんの著書『人間になる』には、「孤独」についてラルシュの家での体験から考察しています。「孤独」は人間皆が生来もっているもの。隠しているに過ぎないもの。独創性や芸術性は、「孤独」であることから生み出される「孤独」の善い面を紹介しています。しかし、ジャンさんが出会ったラルシュの家にたどり着いた障がい者の人たちは皆、孤独がもたらす不安や、恐れ、怒り、失望など、いろいろな傷を抱えていたのです。

「苦しみは、心の動揺、わけの分からない不安です。苦しみは、睡眠その他の生活リズムを乱し、私たちを混乱させます。孤独であるとは、自分が望まれていないとか、愛されていない、したがって愛されるに値しないと感じることです。孤独とは死の予感です。ですから、ひどく孤独な人たちの中には、心の痛みを忘れるために精神病になったり暴力をふるったりする人がいるのも不思議ではありません。」(p.16)「孤独とは、人間として尊重され愛されたい、さらにそれ以上の真理に包まれ、神に抱かれたいという叫び(しばしば、悩める心の痛切な叫び)のことです。そのような叫びから、人類は一層健やかに成長することができるのです。」(p.25)

これらの言葉から、現代の無差別殺人事件の背景が垣間見えてきます。ジャンさんはラルシュの家において、露わになる一人ひとりの孤独の感情や気持ちを丁寧に聞き、感じ、抱きしめ「あなたが必要だよ」、「あなたと生きたい」という思いを伝え、「孤独」の傷が癒される体験を語っています。

ジャン・バニエさんのような働き人の声から今、「孤独」の傷が深まるこの時代で「私」はどう生きるのかを考えたい。そしてキリスト教会に集う、私たちは聖書から聴き、共に学び続けたいと思います。『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』マタイ1:23。「あなたは一人ではない」「共に生きよう」主イエスの語りかけをこの身に受け、孤独からの回復の道を一緒に歩み続けたいのです。

小さな祈りから

30年前、祈祷会での子供たちの祈りはいつも「教会が大きくなるように」であった。子供たちの成長と共に、32坪の敷地に建つ旧会堂は益々狭くなっていき、教会前の道路で遊ぶ子供たちに、「車が来るから危ない」と叫ぶことが多くなった。だから、子供たちが会堂の中で安心して過ごすために、教会が大きくなることは切実な課題であった。子供たちのその祈りに導かれるように、上尾教会では会堂建築を目指そうということになり、現在地117坪を購入し、20年前に会堂を建てることができた。

この大きな御業の背後には、小さな祈りの積み重ねがあった。途中、何度も挫折しかけ、会堂建築は無理かなぁと諦めそうになった私たちを押し出してくれたのは、毎週の祈祷会で「教会が大きくなるように」と疑わずに信じて祈る子供たちの姿であった。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10:15。まさに、子供たちの祈りに導かれて、新会堂に入ることができた。それを思うと、どんな事にも、小さな祈りの積み重ねが大切だと感じる。

丁度、30年前、東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊した。この大きな歴史的出来事の背後にも、小さな祈りの積み重ねがあった。1982年、ライプツィヒのニコライ教会ではクリスチャン・フューラー牧師の提案で、「平和の祈り」という集会を毎週月曜日に行うようになった。最初は少人数であったが、次第に参加者が増え、東ドイツの現状体制に反対する市民運動の拠点となり、1989年9月からは集会後に「月曜デモ」が始まり、10月9日の「平和の祈り」の後、教会周囲に集まったデモ参加者は7万人にまで達した。1ヶ月後の11月9日に「鉄のカーテン」の象徴たるベルリンの壁が崩壊し、分断国家ドイツを1人の犠牲者も出すことなく統一へと導いた。それ故、ニコライ教会は「東西ドイツ統一革命の出発点」と言われ、東西ドイツ統一のきっかけとなった「平和の祈り」は、現在も絶えることなく受け継がれている。

今日、人が集まらないから、祈祷会を止めようという教会があることを聞く。また、祈っても叶えられそうにないから、と祈祷会に参加することを諦める人がいる。しかし、小さな祈りの積み重ねが大きな奇跡を生む。預言者サムエルは、「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」サムエル記上12:23と、祈らないことは罪であるとさえ語った。神は、私たちの祈りを通して、御業を進めようとしておられる。小さな祈りを積み重ねようではないか。

「内なる人」は日々新たにされていく

辛い時、苦しい時、ユーモアが明るさをもたらすことをホスピス医の柏木哲夫先生が語っていた。柏木先生が回診の時、患者さんに「体調はいかがですか」と尋ねたところ、「先生、順調に衰えています」と応えられたのを聞いて、その場が急に和らいだとのこと。この患者さんが、日に日に衰えていくことを拒絶するのでなく、「順調」という言葉で表したように、受容していくことが、実は私たちにも求められているのではないか。誰しも遅かれ早かれ「順調」に衰えていくからである。年を取っていくと、体力も気力も能力も衰えていく。目が見えにくくなり、耳が聞こえにくくなり、体の自由がきかなくなる。また調子の悪いところが出てくる。時には大変重い病気を患う。そして体が弱ると共に、これから先の生活が不安になり、心細さを感じていく。

しかし、パウロはユーモアをもって希望を語る。“たとえ、わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。”Ⅱコリント4:18。この「内なる人」とは、キリストによってもたらされた永遠の命によって、日々新たに」リフレッシュされ、充実し、喜びに満たされていく人のことである。私たちの体は確かに日々衰えていくが、主が心を日々新しくしてくださるので、“だから、わたしたちは落胆しません。”同4:18と言い切って、生活を始めることができるのである。

鈴木正久牧師は、癌を患い、56歳で召される直前、「自分は今、死に向かっているのではない、キリスト・イエスの日に向かっているのだ。」と言われ、それを録音テープにこう残された。「使徒パウロは、自分自身の肉体の死を前にしながら、喜びに溢れて、フィリピの信徒に語りかけているのです。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。そうではなくて、それを越えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。それが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです。そのことが、今まで頭の中で分かっていたはずなんですけれども、何か全く新しいことのように分かってきました。聖書というものがこんなに命に溢れた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じたくらいに今感じています。」

私たちは「死に向かっている」と思う時、希望を失う。しかし、キリスト・イエスの日に向かっている」と確信する時、衰えることにも感謝でき、御国で主にお会いできるという新たな希望が与えられる。私たちは自分の力では日々新たになることはできないが、主を信じて生きる時、日々新たにされていくのである。なんと幸いなことか。