週報巻頭言

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主を賛美するために民は創造された

人は何のために創造されたのか。詩編102編19節には、“後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”とある。主を賛美する」こと、これが私たちが創造された目的である。アウグスティヌスは、「人間はあなた(神)に向けて創られました。人間は、小さいながらも被造物の一つとして、あなたを讃えようとするのです。喜んで、讃えずにはいられない気持にかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」(『告白』)と語る。

もちろん、神を賛美しない生き方もあるだろう。どちらを向いて生きるのも自由である。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」ヤコブ3:9-10とあるように、私たちは毎週、礼拝で主を賛美するが、その同じ口で、人の悪口を言い、非難し、呪うことはないか。では、私たちはどうしたら良いのか?語らなければ良いのか?そうではない。私たちは実際、多くの人に大目に見てもらって、赦されながら語っている。そして、究極的には天の父である神に赦されながら語っている。赦されなければ語れない存在、赦されなければ生きられない存在、それが私たちである。その事を忘れないで、主への感謝を賛美し、人を慰め、励ます言葉を発していきたい。

先日、「メディカル・カフェ」で樋野興夫先生から、どんな言葉や姿勢が人を慰めるかを学んだ。その中で、宝塚歌劇団の舞台裏に貼られているブスの25ヵ条」に気をつければ、生きる力を引き出す寄り添い方になると教わったので、下記に紹介したい。

1.笑顔がない 2.お礼を言わない 3.おいしいと言わない 4.目が輝いていない

5.精気がない 6.いつも口がへの字の形をしている 7.自信がない 8.希望や信念がない 9.自分がブスであることをしらない 10.声が小さくイジケている 11.自分が最も正しいと信じている 12.グチをこぼす 13.他人をうらむ 14.責任転嫁がうまい 15.いつも周囲が悪いと思っている 16.他人に嫉妬する 17.他人につくさない 18.他人を信じない 19.謙虚さがなくゴウマンである 20.人のアドバイスや忠告を受け入れない 21.なんでもないことにキズつく 22.悲観的に物事を考える 23.問題意識を持てない 24.存在自体が周囲を暗くする 25.人生においても仕事においても意欲がない

「主を賛美するために民は創造された。」のだから、これとは正反対に生きたい。

 

寄り添うことの大切さ

先月、私たちは「寄り添う」ことを深く学んだのではないか。神谷武宏先生を通して、子どもの命を守るために、保育園の保護者に寄り添いながら立ち上がったこと、また、樋野興夫先生を通して、大切な人ががんになった時、生きる力を引き出す寄り添い方を。この寄り添うとは、励ますことではない。柏木哲夫先生は、著書の中で、次のように語られていた。『励ますというのは外から動かす力だと思います。相手の方を励ますために、「がんばりましょう」と声をかけます。それは、自分はあまり関与しなくてもいいことなのです。「がんばりましょう」と言ったら、あとはがんばるか、がんばらないかは、相手の方の問題になります。励ましたから、自分の役割は終わったのです。ところが「寄り添う」というのは、自分も参加することです。そばにそっと寄り添うというのは、そこから逃げ出さないで、空間を共にするという意味があります。共に担うのです。ここから先はあなた一人でやってください、私の役割は終わりましたよ、という訳ではないのです。』

寄り添うというのは、共にいること、共に担うことで、とても時間と忍耐のいることである。「善きサマリヤ人」のように、とことん相手の心に寄り添うことである。人によっては、本当はこうしてほしいのに我慢して言えない、という事もあるだろうから、そういった言えない部分も想像して相手の心を汲み取り、行動や発言をしていくことである。このような寄り添う心は、本来の罪ある人間には備えられていないのではないか。そのような心は、主から与えられるものである。主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」マタイ9:36とあるように、弱り果て、傷ついた者の所に走り寄ってくださる方である。

私たちは、何らかの破れを抱えながら生きている。人間関係の破れ、生活苦の破れ、仕事上の破れ、健康上の破れなど、人には言えない悩みを抱えている。自分の力で何とかできるはずだと、がんばってみたものの、疲れ果て、自暴自棄になってしまうことがあるのではないか。主は、そんな私たちに憐れみをもって近づいてくださる。私たちの弱さ、罪、破れに共感し、私はあなたと共にいる、と慰めてくださる。だから主に出会った私たちも、自分のことのように、他の人たちの弱さ、苦しみ、罪に、共感を持って近づくことができるのではないか。寄り添う力の源である主の愛を頂いて、私たちに出来る仕方で寄り添っていきたい。福音は、ただ言葉を持って伝えるだけではなく、寄り添うことを通して伝えられていくものである。

神の慈しみはあなたを追う 福久 織江

ヨナは、立派な預言者というには程遠い人物です。神に背いて逃げ出してみたり、しおらしく祈って反省し従順になったかと思えば、期待通りにならなかったと腹をたて文句を言ってみたり、ちょっとしたことで喜んで上機嫌になったり、不機嫌になったり。ヨナの感情のアップダウンはとても激しく、神に対する姿勢もころころ変わります。預言者としても信仰者としても、お手本となるような姿は何も見出せません。そして私たちは、ヨナに自分の姿を見るのです。バプテスマを受け古い自分に死に、復活の主の命をいただき新生したはずなのに、神に文句を言いたい時もあれば、神から逃げたくなる時もある自分、み言葉に従いきれない/従いたくない、そんな自分があぶりだされてくるからです。

しかしヨナ書の主たるメッセージは、“ヨナのようになってはいけない”ではありません。こんなヨナを見捨てず、見放さず、命を守り、預言者として尚も用いようとなさる神。懲らしめ滅ぼすことを目的とされるのではなく、すべての人が神に立ち返り生きていくことを望んでいらっしゃる、その主なる神を指し示すことが目的なのです。つまりヨナ書の主人公はヨナではなく、神だということなのです。預言者ヨナの姿を美化せずにそのままに描き出すからこそ、そのヨナに寄り添い続けてくださる神の愛が、はっきりと見えてくるのです。

そこで私たちはここで、神と共に歩むということは、一体どういうことなのかについても考えさせられます。ヨナ書からは、神と共に歩むとは賞賛される立派な人になっていくことではなく、紆余曲折を経ながらも神が共にいてくださることを体験し、神がどのような方かをより深く知っていくことが一番求められていることであり、真に価値あることだということが見えてきます。

私たちは、神の愛の広さ高さ深さを見極めることはできません。でも神の慈しみはいつも私たちを追いかけ離れることは決して無い、そのことは聖書を通して知っています。だから私たちは神を信頼して、自分の正直な思いを神に吐露していけるのです。そして神はこの至らない私たちをも用い、私たちが関わった人々に主が主であることを示されるのだということを信じて、喜びに満たされながら生きていけるのです。ハレルヤ!       (新潟主の港キリスト教会牧師)

命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)      神谷 武宏

沖縄では「戦後ゼロ年」という言葉があります。日本は1945年の敗戦にて終戦を迎えましたが、しかし沖縄では未だ戦争の悲劇が続いています。1952年4月28日、日米の「平和条約」が施行され、日本は米軍統治下から主権を回復しましたが、その条約には沖縄が米軍の直接統治に置かれることが含まれており、日本は沖縄を売って戦後の自由を獲得するのです。沖縄では4月28日を「屈辱の日」と呼んでいます。

沖縄は1972年に「戦後」27年を経て日本への「復帰」となりましたが、その時の思いは日本国憲法の下に身を置くことに希望を見出したのです。憲法の下では沖縄に米軍基地があり続けることは違法であり、自ずと整理縮小へと向かう事を期待しましました。しかし「復帰」後も米軍基地は在り続け、在日米軍基地の70,3%が日本国土の0,6%にすぎない沖縄に集中しています。この現状は日本国憲法よりも日米安保、日米地位協定が上にあるということです。

沖縄は「戦後」70年余、常に米国の戦争に巻き込まれ加担させられ続けます。また米軍がもたらす事件事故は後を絶たず、2016年4月にまたしても20歳の女性が拉致強姦、殺害遺棄されました。この現状は戦後でしょうか?「命どぅ宝」は沖縄の金言です。その金言(歴史)に逆行する状況は“悲しみ”そのものです。

「命どぅ宝」の言葉が生まれたのは琉球の政治家「蔡温」(1682~1762)の影響が大きいと言われます。彼が残した言葉に「何ものにも勝って命こそが大切である。他の全てのものは失っても取り戻すことができるが、命だけは取り戻すことができない。何よりも命を大切にすべきである。」この言葉は琉球の思想として受け継がれています。ゆえに琉球には戦争をするという想定はないのです。

1879年、日本(明治政府)による「琉球処分」が行われました。「処分」とは日本の政治的視点であり、琉球から見れば「琉球併合」の何ものでもありません。日本は軍隊、警察官合わせ600人余をもって琉球を制圧します。この時、琉球国最後の王であった尚泰が首里城を明け渡す決断をしますが、その背景には祖国が滅びゆく中で武器を手にして戦う若者がいたのです。命を粗末にしてはいけないと首里城を明け渡すのでした。その歴史背景が、後に琉歌「命どぅ宝」が生まれます。

戦(いくさ)世(ゆ)んしまち/みるく世(ゆ)ややがてぃ/嘆(なげ)くなよ臣下(しんか)/命(ぬち)どぅ宝(たから)(戦争の世は終った/平和で豊かな世がやって来る/嘆くなよおまえたち/命こそ宝)、国は滅びても人の命に勝るものはないという先人の教えがここにあります。この琉球の歴史は聖書の教えと重なるように思えます。       (普天間バプテスト教会牧師)

私から始める、世界が変わる!

今、世界の飢餓人口は8億人、9人に1人が飢餓に苦しむ、5秒に1人の子供が飢餓が原因で亡くなる。これは食べ物が足りないからではない。なぜなら、毎年世界では、23億トンの穀物が生産されて、もしこれが世界に住む73億人に平等に分配されていれば、一人あたり年間330kg以上食べられることになる。日本人が実際に食べている穀物は、年間160kg。世界では穀物に加えて野菜などの生産があることを考えれば、世界中の人たちが十分に食べられるだけの食べ物が生産されている。

飢餓の原因は、食料の不足が原因ではなく、人間の貪欲さであったり、社会システムであったり、不平等な文化にある。ボンへッファーは、「誰かが自分のパンを自分のためにだけ取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の掟である。」と警告を鳴らす。飢餓状態にある子供の80%は、余剰食糧を生産している国の子供たちである。輸出用(つまり日本などの先進食糧輸入国)の食糧を生産している隣りで、食べることがままならないという状態で過ごさなくてはならない子供たちが大勢いる。つまり、食糧支援を行うだけでは、根本的な解決には全く繋がらない。

5つのパンと2匹の魚」とを持った少年が、それらを「進んで捧げる」ことによって、皆が満腹するという奇跡が聖書に記されているが、これは富の偏在に苦悩する世界に与えられた希望である。主は、「お前たちは、わたしが植えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:35-36、40 と言われた。トルストイはこの御言葉を読んで、「愛あるところに神あり」(靴屋のマルティン)という民話を書いた。トルストイは、目の前にいる困っている人こそ、イエスだと気づいた。

日本国際飢餓対策機構の標語に、「わたしから始める、世界が変わる」とあった。愛が行動に表わされ、これが一人また一人と広がる時に、支えられる人も支える人も、心豊かにされ、飢餓と貧困に苦しむ人が必ず救われると信じる。「愛の反対は、憎しみではなく無関心ですマザー・テレサは語る。愛は、相手に関心をもつことから始まる。私たちも飢餓に苦しむ人々に関心をもち、愛を見える形で表していきたい。そして愛の冷えた社会で本当の豊かさを分かち合いたい。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と、世界中の人々に食物が与えられることを、主に祈り求めていきたい。

変えられる喜び

10月「教会学校月間」を迎えた。分級では、御言葉を一緒に聴き、聴いた御言葉を分かち合い、その御言葉に押し出されて生活することを願っている。それは「変えられる喜び」を分級で味わうことでもある。先月、教育委員会で学んだ『教会学校ブックレット』の中に「変えられる喜び」という文書が目に留まったので以下に紹介したい。

“私たちは神のみ心を聞きたいと願って、聖書を共に開きます。その時に必要なのは聖書を「わかっている」人でも「学び終えた」人でもありません。「わかりたい」と願って手を伸ばし続けている人です。常に聖書の前でルーキー(新人)である人のことです。初めて聖書を開くように読み、互いの考えを聞き合います。すると、これまでの自分の捉え方が揺さぶられ、殻が破られていくような体験が与えられます。聖書を真ん中にしたところでは、幼児や新来者にベテランのリーダーが「教えられる」ということが常に起こり得るのです。

私たちが正直に接し、忌憚なく意見交換をする場合、時にお互いの間に緊張が走ることもあるでしょう。しかし、聖書には常にひっくりかえされる人間が描かれているではありませんか。自分にとって受け入れがたい出来事の突入によって、今までの「安定」に亀裂が入り、砕かれてしまう人間です。でも、そういう営みをくぐってこそ、より自由に、より開かれ、より分かち合えるお互いに成っていくという約束を聖書は私たちに告げています。これが聖書の神の「交わり」「平和」の創り方なのでしょう。確かに痛みを負うこともありますが、「神にひっくりかえしてもらっているお互いなのだ」という信頼がそこで育まれていくのです。主イエスはおっしゃるでしょう。揺さぶられ、壊され、立ち尽くすときこそ「産みの苦しみの始まり」だと。「見よ、新しいものが生じた」と。この主の約束をもらっている嬉しさを、それぞれの教会学校の現場で思う存分味わいましょう。“(第一章 教会の使命 P4)

変えられることは、喜びと共に、痛みをも伴うことが多い。それは「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ18:4とあるように、陶工である神に自分が壊されるという経験をするからである。今まで通りの生き方の方が楽であり、安心であるかもしれないが、それではいつまで経っても「変えられる喜び」を経験することはないだろう。分級で、御言葉を聴き、御言葉を分かち合うことによって、お互いに自我が打ち砕かれ、新しく作り直されるとしたら、これほど幸いなことはない。成したまえ 汝がむね 陶作り わが主よ われはただ 汝が手の うちにある 土くれ」新生讃美歌627

真の「終活」とは何か

「葬儀の事前準備なんて、縁起でもない!」は、一昔前の話。最近では「終活」が大流行である。人生の最期、誰にでも訪れる死に備えるもので、遺産や身の回りのことを整理したり、葬儀やお墓のことを決めたりと、自分の希望を元気な時に周りの人に伝えておくことは大切なことである。しかし、ただ葬儀の準備ができたから、お墓を建てたから、それで死に対する備えができたかと言うと、そうではない。

真の「終活」とは、死んだ後、いったい人間はどうなるのかを知って備えることである。多くの人がこの答えを知ることなく、死んでいく。聖書には、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」ヘブライ9:27と記されている。前半の「一度死ぬこと」は誰でも受け入れるが、後半の「その後に裁きを受けることが定まっている」は、殆どの人は受け入れてはいない。私たちは死後、神の前に立ち、神の審判を受けなければならない。ですから、「お前は自分の神と出会う備えをせよ。」アモス4:12と警告している。私たちは神の法廷で、被告人として神の前で裁かれるが、その時、私には罪がないとは言えず、自分の力で自分の罪の清算をすることはできない。誰もが、永遠の滅びを宣告されたとしても不思議ではない。

それではどうしたら、私たちの罪は清算されるのか。聖書はこの問いに対して喜ばしい知らせを伝えている。それは、私たちに代わって罪の清算をしてくださった方がおられる。その方こそ、主イエス・キリストである。主は、私たちの罪を負って十字架にかかり、身代わりとして神の裁きを一身に受け、三日目に墓を打ち破って復活してくださった。この主イエス・キリストを、救い主と信じるだけで、すべての罪は赦され、死後、神の法廷で永遠の救いに与ることができるのである。

死は、恐れを生み出す。また愛する者が亡くなった時、残された者に大きな悲しみや癒しがたい喪失感を生み出す。しかし、イエス・キリストを信じる者にとっては、死は地上の生涯を終えて天国に至る通過点にすぎない。死を通して、もっとすばらしい世界が開かれている。パスカルは、「私たちの死に対する不安は、自分たちの死を他人の死と比べるところから始まる。しかし、イエス・キリストの死を思い起こす時、死の不安は消え、新しい希望が与えられるのである。」と語っている。キリストの死によって、死は勝利に飲み込まれた。主の御許に召された信仰の先達者に倣って、死を超えた復活の希望を持つことが、地上の生涯を勇敢に生き抜く秘訣である。

連合50年の歩みの恵み

来月の「北関東地方連合結成50周年大会」のために、「大会しおり」「連合50年の恵み」を編集することになり、そのために、武章子さんと冨岡真奈さんにも尽力いただいて、あとは仕上がりを待つだけとなった。編集を通して、改めて連合の協力伝道の豊かさ、素晴らしさを実感した。

連合では、「伝道」「教会教育」「教会音楽」「女性会」「壮年会」「青年会」「少年少女会」「小羊会」「牧師会」「牧師配偶者会」「社会委員会」「災害対策委員会」などが活動し、様々な集会を開いてきた。その集会に参加することによって、私たちの信仰がどれほど育てられ、私たちの教会がどれほど豊かにされてきたことだろううか。もし、連合の働きがなければ、教会は孤立し、外に出かけて行くこともなかったであろう。

「バプテストは・・各個教会の限界や弱さを自覚し、連帯の必要性を知っていました。ですから、ごく早い段階から彼らは互いに連帯し、励まし合う交わり(連合)を形成しています。・・各個教会だけでは担いきれない課題を、互いに切磋琢磨し、励まし合いながら共に担い、キリストの宣教命令に応えようと考えたのでした。」『いま、バプテストを生きる』P13

今日、少子高齢化が進み、教勢は年々下がる中、「教会復興」「開拓伝道」「親子伝道」「人材養成」「青少年伝道」「高齢者伝道」「教会の国際化」は、一教会だけでは「担いきれない課題」である。「連合結成50周年大会」では、これらの課題について分かち合い、今の時代にふさわしい協力伝道とはどのようなものなのか、従来の発想や考え、方法に捉われないで、自由に語り合い、知恵を出し合いたいと願っている。そこから、何か新しいものが生み出されることを期待している。

丁度、9月に相互訪問で新潟主の港教会を訪ねた時、教会音楽研修会を武章子さんが担当して、大変喜ばれた。いつも新潟から教会音楽研修会には、1名送り出せるのがやっとであると伺っていたので、奏楽者のレッスンも兼ねて行った教会音楽研修会には3名の方が参加してくださった。私たちの教会もかつて常盤台教会から毎年女性クワイア(コーア・グナーデ、ホゥリイ・マナ)が奉仕してくださり、教会音楽を育んでくださった。それによって、上尾教会の今がある。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」Ⅰコリント15:10。協力伝道によって、神の恵みに与ったのですから、その恵みを独り占めにしてはいけない。得たものは、分かち合いたい。

実りある伝道懇談会にするには

本日、伝道懇談会を迎えた。私たちに託された伝道の使命を果たしていくためにどうしたらよいか、収穫の主に願いつつ、皆さんで語り合い、知恵を出し合いたい。伝道とは「道を伝える」ことである。主の救いの道を伝えることである。主が私の人生にどれほど大きな救い(十字架の赦しと復活の命)を与えてくださったか、喜びをもって伝えることである。しかし、伝道という言葉は今日の教会ではあまり使われなくなった。かつては2~3日連続で行っていた「伝道集会」も集う人が少なくなり、一日だけの集会になった。それでも伝道は、教会にとって大切な使命である。

「高齢者伝道」・・高齢社会が進む中で、高齢者に対してどのような働きかけが必要か、又、高齢者に協力できることは何か、更に、高齢者としてどのように教会に仕えることができるか等について、それぞれの立場になって話し合ってみたい。三井住宅や第一団地・第二団地は高齢化が最も進み、独り暮らしの方も多い。対話する人を求めたり、病や死の不安を抱えている高齢者も多くおられることだろう。

「親子伝道」・・子どもを主に導くために、子どもに対して、親に対して、どのような働きかけが必要か、話し合ってみたい。親子が一緒に礼拝に出席するために、教会は何ができるか。教会と子育て中の親との話し合いの場は持っているか。子どもたちは周りの大人を見て、自分がどうあるべきかを学ぶ。私たちの信仰姿勢、どんな姿勢で教会生活を送っているか、子どもに見られていることを忘れてはならない。

「青少年伝道」・・現代を生きる青少年は教会に何を求めているのか。そして、教会は青少年に何を求めているのか。私たち教会に青少年の居場所はあるのか。かつて日本の教会は「青年の教会」と言われた。10代、20代の青年が聖書を求め、生きる目的を求めて、教会を訪れ、信仰に導かれた。しかし、今日、様々な問題を抱えて心病む青年が教会を訪ねるケースが多い。主は「御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」マタイ9:35。心病む青年の居場所に教会はなれないか。

「迎える伝道」・・私たちの教会は地の利の良さから、新来者や外国籍の方も礼拝によく来られるが、どんな思いで来られているのだろうか。又、一回だけの方が多いので、継続して頂くために、どのような取り組みが必要なのか。個人的に親しくなると、集いやすくなるものである。「誰々さんがいてくれたから、安心して来れました」という声をよく聞く。親しくなるためには、どのような事に心がけるとよいのか。

自然災害における教会の対応

今年は日本列島に次々と自然災害が起こり、甚大な被害をもたらしている。6月に大阪府北部地震、7月に西日本豪雨、9月に台風21号と北海道地震、それに加えて命に関わる高温気象。世界にも言えることで、洪水や山火事が、世界のあちこちで起きている。もはや自然災害は、終末時代に生きる私たちには稀なことではなく、日常的なことになり、自然災害における私たち教会の対応が求められている。

丁度、今年発行された『日本バプテスト連盟70年史』の中に「自然災害における教会の対応」という文章があったので、ここに紹介したい。

「毎年、日本各地で様々な災害が起こる。多くの災害は、自然災害でありつつ、人的災害の側面を併せてもつ。日本社会が内包しつつも、人々の目に隠されている様々な歪み、矛盾、不正義を災害はあぶりだし、教会を問う。災害のただ中で、教会は自らの存在意義を聖書からどのように聴き取り、どのような宣教理解に立って、被災者の痛みや悲しみを背負い生きる人々を支援するのか。何を祈り求めて共に歩むのか。災害支援の取り組みを通して、日本バプテスト連盟諸教会は福音の内実の問い直しを受けてきたといえる。」

また「“支援と伝道”を巡る問い」という文書には、こう記されていた。「被災地の教会が直面している課題の一つに“支援と伝道をどう考えるか”という課題がある。支援に携わる一部の人々から“支援は伝道の手段である”という理解が提起された時、現地支援委員会は“支援を伝道の手段とすべきではない”というスタンスに立って活動をした。例えば“炊き出しと一緒に聖書を配るべきだ”という理解に対して、被災の中にある人々に“支援と取引をするような伝道”は厳に慎むべきという理解に立ったのである。“バプテスト”(キリスト者)という看板を隠すことはしないが、支援の場は支援に徹し、人と人との関係が深まる中で相手から求められた時に“信仰を証しする”スタンスである。そこでは“被災者をどう見るか”という視点が問われた。“かわいそうな人、福音を必要としている人”と見なし、自分は“福音を提供し、助けてあげる人”という理解に立つのではなく、現地支援委員会では“被災者は、今まで自分たちが見えていなかった課題を見えるように、聴くことができずにいた声を聴くように促し、導いてくれる存在であり、私自身の福音理解を問い直し、教会が取り組むべき課題を指し示してくれる大切な存在”という理解へと導かれたのである。」

私たちは神の声を聴くと共に、被災者の声を聴くことが求められている。相手の心に寄り添い、相手の願うことを祈り求めることが「主の愛に生きる教会」ではないか。