週報巻頭言

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主の愛に生きる教会

今年度の主題は、昨年度に続いて「主の愛に生きる教会」とした。主の愛に生きる教会として、深く掘り下げて歩んでいきたいとの願いからである。その指針として、

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」ルカによる福音書10章27節という聖句を掲げ、毎週の礼拝の「招きの言葉」として唱えてきた。この御言葉は、お題目のように唱えることに意味があるのではない。唱えながら、どのように実践するかが問われている。

愛するとは、どういうことであろうか。私はアレキサンダー・マクラーレン牧師の言葉を思い出す。「愛するとは、愛する人が望むことをわが望みとして行動し、その望みが叶えられた時に、共に喜ぶことである。」 上尾教会では今、多くの方が「友愛チーム」の一員となって、送迎のために奉仕してくださっている。そのお陰で、集会に参加できる方の何と多いことか。その喜ぶ姿を見て、奉仕する者も嬉しくなるのではないか。愛する人が何を必要としているのかをキャッチして、自分にできることを行っていく、そして、喜んでいる姿を見て、主に感謝を捧げていく、これが愛するということではないか。病床に見舞いに行く、施設や家庭を訪ねる、そして、祈りを合わせる・・これらの事が、教会に来たくても来れない方にとっては、大きな慰めになるだろう。

パウロも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ローマ12:15と語る。「共に喜び、共に泣く」とは、共感することである。それは、同じ思いを抱く、同じように感じるということだけではなく、その人にとっての辛いことや本当に克服したいこと、求めていることを共に求めていくという思いで関わることでもある。それだけに、自分も傷ついたり、悲嘆にくれたり、何の力にもなれないという無力感を感じることがあるかもしれない。しかし、この共感こそ、主の愛に生きる教会を生み出すのである。

私たちは、人間の力では人を愛することはできない。愛する人の願いよりも、自分の願いを優先し、相手を悲しませてしまうことが何と多いことか。自己愛に翻弄される私たちは、神から愛(慰め)をいただかない限り、人を愛する(慰める)ことはできない。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」Ⅱコリント1:4「神からいただく慰め」とは、主の十字架の赦しに与ることである。「こんな罪深い私さえ、主は十字架にかかって愛してくださった」と気づく時、愛する者に変えられるのである。

地域に開かれた教会

今年の秋には、会堂が建って20周年を迎える。月日が経つのは早いものである。どのような思いで会堂を建てたのか、献堂式で唱和した『上尾キリスト教会が求めてきた教会像』を今一度振り返り、会堂が十分に用いられてきたことを感謝すると共に、これから取り組む必要のあることを、この一年の歩みの中で見い出していきたい。

この新会堂は神の臨在と栄光が現される場所です。生ける神と私たちが出会う礼拝の場所を中心として、各部屋を配置しました。礼拝堂は、「霊と真理をもって」(ヨハネ4:24)礼拝がささげられ、心の安らぎが得られるよう、天井を天井を高く取り、暖かさと落ち着いた宗教雰囲気をかもしだせるようにしました。また、子どもと大人が一緒に礼拝をささげ、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえ」(コロサイ3:16)ることができるよう、音響に配慮し、スクリーンを備え付け、一体感のあるものにしました。さらに礼拝堂は、分級、地方連合の諸集会、音楽会、講演会、結婚式、葬儀、など多目的にも使えるよう、個人椅子とし、サイドルームを開くと、最大で150名収容できるようにしました。

私たちはの教会の第一の使命は、地域に開かれた教会として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。最も人目に付きやすく、四方から教会の存在がわかるよう交差点の角にシンボルの十字架の塔を配置しました。また、だれでも入りやすいように玄関は開放的で明るいものにし、ロビーもゆったりと接待できるものにしました。障がい者や高齢者の方が安心して集っていただけるよう、スロープ、手すり、自動ドア、身障者用トイレなどバリア・フリーを目指しました。平日も地域に開かれた教会として宣教の使命を果たしていくため、新来会者にすぐに対応できるよう、事務室を入り口に配慮し、また、カウンセリング、牧会の働きをするために牧師室を隣に配置して、気兼ねなく訪ねていただけるようにしました。社会のさまざまな問題解決のために門戸を開き、共に福音にあずかることができるよう、積極的に取り組んでいきたいと願っています。(一部省略)

「地域に開かれた教会」として、礼拝堂は、礼拝だけではなく、地域のさまざまな催し(三井住宅の会合、コーラスの練習、埼玉アシュラム、朝祷会)のためにも利用され、多くの方が出入りするようになった。集会の案内を差し上げると、敷居が低くなったこともあってか、よく来てくださるようになった。会堂が年々用いられていることは感謝である。会堂以上に、人と人との繋がりが「地域に開かれた教会」をつくり出している。地域の方々との繋がりがさらに深まれば、福音は受け入れられていくだろう。

主の福音という福袋

元旦の朝、アリオに行くと長蛇の列。「福袋」目当てに、開店前から多くの人が並んでいた。お目当ての福袋には、限りがあるのだろう。その様子を見て、教会にも福袋が用意されていることを世の中の人に伝えなければと思った。教会の福袋とは「主の福音」が入ったもので、人数も金額も制限がない。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」ヨハネの黙示録22:17と、誰でも求めれば、価なしに、ただで与えられる。しかし、教会では礼拝前から長蛇の列になることはない。

それは何故か?福袋の中に入っている「主の福音」の素晴らしさに気づかないからである。その中身には、「罪の赦し」が入っている。人が一番願っていることは、赦されることである。皆さんも、過去の犯した罪過ちに、良心の呵責を覚え、夜も眠れないという経験をすることがあるのではないか。罪の赦しは、時間が解決してくれるわけでも、お金が解決してくれるわけでもない。人には、罪の赦しを解決することはできない。しかし、神の独り子である主イエスは十字架にかかって、罪の赦しを解決してくださった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34と、十字架上で祈られた主は、見事に罪の赦しをもたらしてくださった。

福袋の中身にはもう一つ、「永遠の命」が入っている。この「永遠の命」は、不老不死のことではない。死んでも永遠に生きるという命である。主を信じる者には、この永遠の命が与えられるので、死は忌み嫌うものではなく、天国への凱旋の時となる。一休禅師は、「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と一句を詠みながら、正月ムードの京の町を練り歩いたという。「目を覚ましておけ。新年を祝うとは、死の近づきを祝っているという意味でもあるんだぞ。死はすぐそばにあるんだぞ。そのことを理解した上で、正月を祝うんだぞ。」そんな思いを込めた、一句だったのではないか。

自分の死は、遠い先のことと思っている人はいないか。しかし、死は確実に近づいている。自分が死んだらどうなるのか、そのことを今一度、立ち止まって考えてみると、人生に無くてはならぬものは多くはないことに気づく。天国には、何一つ地上に蓄えたものを持っていくことはできない。主の福音という福袋を頂いた者は、「あなたがたは地上に富を積んではならない。~富は、天に積みなさい。」マタイ6:19-20という主の言葉に従って生きることが求められている。毎週、礼拝で福音の福袋を頂くことによって、主の救いを確信し、安らか人生を歩み、また、安らかな死を迎えたい。

災いの中にこそ、神の恵みがある

2018年を表す漢字は、「災」であった。6月大阪府北部地震、7月西日本豪雨、災害酷暑、9月北海道胆振東部地震、台風21号、24号直撃、と全国各地で災害が相次ぎ、大きな被害をもたらした。上尾教会の牧師館も台風24号で屋根のトタンが飛ばされ、隣の家のガレージを破損させ、大変な迷惑をかけた。ただ人的な被害がなかったことは不幸中の幸いであった。災害は、起こらないにこしたことはないが、「災い転じて福となす」という諺があるように、厄介ごと一転して幸福の種に転じることもある。ご近所の方から、「大変でしたね。気になさらないでください。私たちも何かあった時は、建物が頑丈な教会に避難させて頂きたいと思います。」とか、「どうぞ、家の車庫が空いていますので、教会で使ってください。」と言われて、ご近所のありがたみをひしひしと感じている。2011年3月の東日本大震災以後、三井住宅では防災部が発足し、秋山純子さんが部員として当初から関わり、教会も会合に使用されてきたので、今回の被害で、慰めの言葉をかけて頂いたことは嬉しかった。

「災」は、自然災害に限らず、病気や交通事故などで辛い思いをし、入院や手術を余儀なくされた方もおられるだろう。しかし、その中で聖書の言葉に励まされ、信仰の恵みの豊かさを経験された方がおられるのではないか。パウロは、一つのとげ(病)が取り去られるように、一日中祈った。その結果、病が取り去られたかというとそうではなかった。病という災いの中で、神の恵みがどれほど大きいかを悟ったのである。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」Ⅱコリント12:9。主の恵みに与ったからこそ、病は忌むべきものではなく、むしろ誇るもの、幸いなものになったのである。

私たちの人生には、「これさえなければ、どれほど幸せになれただろう」と思うことが

あるかもしれない。しかし、主を信じる時、災いと思えることがあったとしても、「私はそれでも幸せです」と告白できるのである。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。・・いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方(主)のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピ4:11-13と、パウロが告白したように、いついかなる場合にも主の力により頼んで、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたい。」災いの中にこそ、神の恵みがある。

 

主イエスこそ、共にいてくださる神

時折「神がいるなら、見せてくれ」と言われる人がいる。神がいるならば、世の中の戦争や迫害や貧困はどうして起こるのか。神は、毎日世界中に何万と死んで行く幼子を愛していないのか。このような問いは、古くからキリスト教に向けられてきた。私たちは、神の愛をこの世の現実の中に見いだそうとする。それに対して聖書は、神の愛は人間の目には隠されているが、信仰の目を持って見るなら、神の愛は見ることができると語る。クリスマスの出来事は、私たちをそういう信仰へと招くのである。

クリスマスの出来事の大事な言葉は「見る」ということである。御使いが羊飼いたちに現れて「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と語り、羊飼いは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合う。シメオンは幼子を抱いて、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言う。無限の霊である神を、人間は肉眼をもって見ることは出来ない。しかし、主イエスを見るならば、「あなたは神を見た」と言える。

主イエスの素晴らしさは、神ご自身を見せてくれたことである。文字通り「見える神」となられた。この主イエスにおいて見る神の姿は、私たちに寄り添ってくださる神である。主イエスは私たちと同じように、人間として歩まれた。空腹を覚え、悲しみや嘆きも体験された。涙を流し、怒ることもあった。憐みに心を動かされた。人となられた神は、私たちの傍らにいる神となってくださった。主イエスは、「神は我々と共におられる」という意味で、「インマヌエル」と呼ばれたのである。

ある聖書学者は、「クリスマスは、神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だ。丁度、母親が火事で火を浴びている子どもの上に身を投げ出すように、大波に襲われた子のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ。」と語る。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。主イエスこそ、私たちを愛して、私たちのために身を投げ出して救う神となってくださった。孤独を味わう時、病む時、辛さと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、主イエスは私たちの傍らに共にいてくださる神である。主イエスは私たちに寄り添いながら、父なる神との交わりの中に導き入れてくださる。父なる神と御子との深い愛の交わりの中に、あなたも招かれている。今日のクリスマスの良き日に、主イエスを救い主と信じて、その深い愛の交わりの中に生きようではないか。

 

賢者の贈り物

クリスマス・プレゼントを何にしようかと皆さんは思い巡らすことはないか。そんな時、私はO・ヘンリーという人が書いた『賢者の贈り物』という小説を思い出す。貧しい夫婦のジムとデラは互いに相手にクリスマス・プレゼントを贈ろうと考えた。妻のデラは、夫のジムが持っている懐中時計用にぴったりの鎖を贈ろうと願い、そのお金を工面するために、自慢の美しく長くて立派なブロンドの髪の毛をばっさりと切り落として売った。一方、夫のジムはデラの自慢の髪の毛にぴったりのべっこうの櫛を買うために、懐中時計を売った。その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然としたのである。デラの髪の毛をとかすための櫛も、懐中時計のための鎖も、今や両方とも、役に立たなくなったのである。

なんとも愚かな贈り物である。私ならショックで寝込んでしまうだろう。しかし、O・ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「一番大切な宝物を、最も賢くない方法で、お互いに犠牲にした、愚かな人たちだ」と言い、その「愚かな人たちこそが最も賢い人であり、最も愚かな贈り物こそが、最も尊いのだ」と言う。これこそが、クリスマスに最も相応しい贈り物である。なぜか。それは、父なる神が最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げてくださったからである。

神は、ご自身に背き、その御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を与えてくださった。しかも、そこまでされたからと言って、人間が神に立ち帰るという保証は何もない。もしかしたら、主がこの世に生まれ、十字架に死んでくださったことが、全く無駄になってしまうかもしれない。それなのに、最愛の独り子をこの世に与えるというその愚かな行為を、神は敢えてしてくださった。

なぜそこまでされたのか。それほどまでに、私たちを愛してくださったからである。それは神のこの「限りなく尊い愚かさ」によって、私たちは罪と死の滅びから救われ、永遠の命が与えられたのである。クリスマスは、独り子を与えてくださった神の恵みに、どう応えていくかを私たちに問い掛けている。私たちは、主の生涯のすべてが限りなく愚かで尊い、十字架の死に向っての歩みであったことを、今一度覚え、それぞれの遣わされた場にあって、神への感謝と献身の思いを表していきたい。周りの人からすれば、神のために献げる時間や労力や献金は、愚かで無駄なことに見えるかもしれないが、聖書はこれこそ「賢者の贈り物」であると告げているのである。

 

 

 

 

 

さあ、ベツレヘムへ行こう!

子どもが生まれた時,誰に一番最初に伝えたいか。きっと大事な人に伝えたいと思う。主イエスがお生まれになった時、一番最初に伝えられた大事な人とは、羊飼いたちであった。羊飼いという職業は、当時の社会の最も底辺、一番下に位置する職業であったと言われている。誰もやりたがらない仕事である。しかし、その仕事に従事しなければならなかった。毎日家畜を自ら飼っているようでありながら、振り回されて逆に、家畜に飼われているような毎日を送っていたのかもしれない。

その羊飼いたちに、天使は告げた。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ルカ2:10-11。自分の存在意義を見出すことができず、暗闇で横たわるしかなかったような者に、この喜びを一番最初に伝えたかったのである。

この喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、どうしたか。「『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」ルカ2:15。天使は、この羊飼いたちに、「さあ、ベツレヘムに行きなさい」と命じたのではない。「ベツレヘムに行けば、救い主のお生まれになる、そのしるしを見ることができるであろう。」そのことを告げただけなのである。それにもかかわらず、彼らの心は、救い主を見ようとの熱望が燃え上がってきた。「虚しいと思えるようなこの生活を、変えて頂くことのできるお方がお生まれになった。」そう思ったら、いてもたってもいられなくなったのである。

現代のベツレヘムは、どこにあるのか。主はどこにおられるのか。現代のベツレヘム、それは教会である。羊飼いたちは、「さあ、教会へ行こう」と叫んだといってもよい。仕事が一段落してから向かったのではない。仕事の最中に立ち上がった。朝になってから向かったのではない。夜の内に出かけた。「時間ができたら、問題が解決したら、教会に行きたい」という方がおられるが、羊飼いはそうしなかった。自分を救う主が来てくださった。そのお方を見たかった。ここに仕事に勝るものがある。疲れや睡眠に勝るものがある。「主が知らせてくださったその出来事を見」たかったのである。

私たちは今日、クリスマスの出来事を見るために礼拝を捧げている。主の誕生は、私たちが日々体験している罪と悲惨の現実のただ中で起った。クリスマスの出来事は、私たちにとって、「主が知らせてくださった大きな喜びの出来事」である。私たちは、神をあがめ、賛美しながら、それぞれの生活へと、喜びをもって帰っていきたい。

人生の居場所がある

人から相談を受けた時、「自分にはどこにも居場所がないのです」という声をよく聞く。家庭に居場所がない、学校に居場所がない、職場に居場所がない、この社会のどこにも居場所がないというのである。それは、自分が誰からも必要とされていない、誰からも認められていない、誰からも愛されていない、別の言い方をすれば、誰とも繋がっておらず、どこにも属していない、と言うことである。そんな思いを感じる時、私たちは自分が安心して居られる居場所がどこにもないように感じる。

皆さんは、死にたいと思ったことはないか。そう思う理由として、自分には、安心していられる「居場所」がないと感じるからではないか。この社会の中に、自分の居場所がないと感じる時、死ぬ以外にないという気持に追い込まれたとしても不思議ではない。居場所の問題は、私たちにとって、それほどに重いのである。

誰にとっても自分の「居場所」が必要である。人と一緒にいても自分だけ居場所がないと感じる時の寂しさ、惨めさほど辛いものはない。だから、人は自分の居場所ということにとても敏感で、闇の中でさ迷うように、自分の居場所を探し、自分の存在を受け止めてもらえる場所を求めて生きている。「あなたは大事な存在なのだ」「あなたが必要なのだ」と、ありのままを受け入れくれる、そんな存在を求めている。

主イエス・キリストは、「居場所のない人」だった。ローマの皇帝の人口調査の勅令のために、マリアとヨセフは、ベツレヘムに旅をしなければならなかった。その上、ベツレヘムに来てみると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ルカ2:7のである。更に、ヘロデ王の迫害を恐れて、エジプトへ避難しなければならなかった。イエスは「ホームレス」となり、「難民」となった。神の御子であるイエスは自らこの地上に生きて、「居場所のない人」になられた。イエス自ら、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ルカ9:58と言われた。それは、イエスご自身が、「居場所のない人」を救い、助けるためであった。そして、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」ヨハネ14:2と、すでに居場所を用意してくださっている。

私たちもまた、主イエスに従って、「居場所のない人」となり、「居場所のない人」のために生きる歩みを指し示されている。主イエスにこそ、私たちの魂の居場所、人生の居場所があると、周りの人々に伝えるクリスマスにしたいものである。

世界祈祷週間を迎えて   教会員

米国南部バプテストの宣教師ロティ・ムーンの働きを覚えて始められた世界バプテスト祈祷週間。40年の長きにわたって中国宣教を担ってきたロティを支えたのは、南部バプテストの女性たちの祈りと献金であった。100年以上経った今もその活動は続けられ、私たちに受け継がれている。日本バプテスト女性連合は、目標献金額を4500万円とし、私たち上尾教会の女性会は20万円の献金目標額を掲げ、個別献金と年2回の惣菜バザー、常設のバザーをし、その収益を献げている。11月末から12月始めにかけての一週間(今年は11月25日~12月2日)は、私たちの目が世界に広げられる時でもある。

幾多の困難に出会いながらも世界各地で宣教に励んでおられる方々がいる。またその働きを直接的に支えるスタッフの方々がおられる。過日、西川口教会で北関東女性会一日集会がもたれ、日本バプテスト連盟宣教部国外伝道室長の井形英絵さんより具体的にその働きの大変さを伺った。実際に宣教を担っている宣教師たち、その働きを支えるスタッフ、更にそれらを支える私たちの祈りと献金、すべては世界宣教につながっている。

現在、連盟には、インドネシア派遣宣教師の野口日宇満・佳奈夫妻、カンボジア派遣宣教師の嶋田和幸・薫夫妻、シンガポール国際日本語教会に伊藤世里江牧師、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之・恵夫妻が働いておられる。女性連合の機関紙『世の光』に働きの詳細が紹介されている。また国内においても日本人男性と結婚したが、言語や文化の違いから必要な情報が届いていない外国からの移住女性たちへの支援のためにも献金がなされている。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15

私たちの小さな平凡な毎日も、祈りと献金によって世界とつながっていること、御言葉につながっていることを改めて自覚したい。年2回の惣菜バザー、何を作ろうか、いくらの値段をつけようか、女性会メンバーは考える。それは楽しい時でもある。少しでも多くの収益を献げたい。私たちの祈りと献金は世界宣教につながっていると改めて思う。『世の光』10月号の最後に祈祷週間の祈りの課題が載せられている。祈りの課題を共に祈りましょう。共に献げましょう。

どんな人間に育てたいのか

子どもを育てる責任は、家庭と教会にある。「どんな人間に育てたいのか」これがはっきりしていることが子どもを育てる上で一番重要なことである。戦前の教育は、「お国に役立つ人間になれ」として、それが歪んで軍国主義の恐ろしい教育に走っていった。戦後はその反動ともいえる、「自分のために」という利己主義だけが大手を振るっている傾向にある。教育基本法は、「世界の平和と人類の福祉のために」という立派な理念を掲げているが、残念ながら、ほど遠いのが現実である。むしろ、多くの家庭での教育理念は何かといえば、よい学校に進学して、よい企業に就職して、よい収入を得る人間になることではないか。このような経済第一主義が、競争社会を生み出し、子どもたちの心を蝕んでいることに、私たち大人は気づかなければならない。

「どんな人間に育てたいのか」この問題を、家庭で、教会で真剣に話し合わなければならない。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という立派な標語を掲げたとしても、隣人とげんかをしているようでは、話にならない。具体的に、神を愛し、隣人を愛する心を育てること、愛することのできる人間になること、これを自ら実践することである。「学びとはまねび(まねをすること)である」と、よく言われる。子どもは、良い事も悪い事も、親や周りにいる人に倣っていく。だから、自分が子どもに何を蒔いているか問われる。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」ガラテヤ6:7-8。

ユダヤにおいて、神を愛し、隣人を愛する心を持った子どもを育てるために、読み書きができる5歳になれば、父親は子どもに聖書の主要聖句、特にイスラエル民族の信仰の中心とされるシェマー(申命記6:4-9)、その他が暗誦できるように教育した。そして、7歳に達した子どもは最寄りの会堂(シナゴーグ)附設の初等学校に通うことが義務づけられた。そこでは、徹底的に旧約聖書全体を学び、主の戒めに従うことを訓練された。当時の教育がいかに徹底したものであったかは、12歳のイエスが、神殿で律法学者たちと対等に議論した記事によってもうなずける。イエスの人格形成は、以上のような伝統的ユダヤ教育の成果であるといえる。そして、それが今日までユダヤ人の「教育の民」としての伝統として継承されている。私たちも上尾教会の今年度の聖句、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいを子育ての中で実践していきたい。