週報巻頭言

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地域のコミュニティとしての教会

18年前、会堂を建てた時、「地域に開かれた教会」を目指すことを掲げた。しかし、教会は三井住宅の中では新参者であり、宗教施設と言うことで、警戒心があったことは確かである。しかし今は、様々な機会に地域の人々が来られるようになった。5月より三井会館の建て替えに伴い、上尾教会が仮集会所となり、様々な活動のために用いられている。住民と親しくなる内に、教会が三井住宅の一角に建ってよかったという声を聞くようになった。歩いていると向こうから挨拶をされるようになったので、身だしなみも気をつかうようになった。6月12日には歌の会がコンサートを、8月26日には秋山姉が属する防災部が講演会を、ゲストを招いて行う。

「教会」の語源であるギリシャ語の「エクレシア」には、「集まり」という意味があり、主を信じる人々が集まる共同体、又、キリストの体として、様々な賜物を持った人々が共に形成する共同体である。上尾教会も、福音のためにプログラムやイベントを沢山導入して、教会というコミュニティを築こうと頑張ってきたのではないか。それは決して悪いことではないが、それだけに頼り、この地域にある教会という存在にも関わらず、教会の主義に合わないということで、地域の人々と距離を置き、地域から孤立したコミュニティにしてしまっていたのではないか、と気づかされた。

教会という存在は、礼拝や祈りを捧げるだけの単なる宗教施設ではない。教会は地域につながってこそ、「地域教会(ローカルチャーチ)」となる。歴史的にもヨーロッパやアメリカなどでは、多くのコミュニティは、教会を中心に形成されてきた。教会は、地域のコミュニティとして、社会的立場の弱い人、特に孤児などを保護して養育する中で宗教教育を行ってきた。セーフティネットの意味合いを持っていた。

そしてこれは新しいことではなく、実は使徒言行録で描かれている。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」使徒言行録2:44-47。教会には、全年齢層が集える。子供や高齢者の居場所がある。「世の光」として、地域に良い影響を与える存在になりえる。地域の人々が、一緒に教会を築いていける仲間として、今後加えられることを大いに期待したい。

「クリスチャンホームの形成」と「信仰の継承」

「中長期計画」の最重要課題である、「クリスチャンホームの形成」「信仰の継承」について執事会で懇談の時をもった。「お題目のようになって、内容が深まっていないのではないか。」「これから家庭を持つ若い人たちの課題に見られがちだが、実は年配者たちの課題ではないだろうか。未信者の配偶者や子供が信仰に導かれるという大きな希望があるのだから。」「これから結婚を考える人には、是非、クリスチャンを配偶者に選んでと勧めます。未信者と結婚すると、教会に来れなくなるケースが多いから。」「クリスチャンホームと言っても、信仰の程度はバラバラで大変なこともあります。」「未信者の配偶者との生活の中で、どのように信仰を勝ち取っているのか聞きたいと思います。」「信仰の継承についても、失敗経験なども含めて、具体的に聞きたいと思います。」・・様々な意見が出された。これは執事会だけではなく、教会全体で分かち合うことが大切だと感じたので、今年の伝道懇談会は、この二つのテーマについて語り合いたいと思った。

先日、ある教会に伺った時、教会員は40代以上で子供はいなかった。すでに、少子高齢化の波が教会にも押し寄せ、子供がいない教会も珍しくはない。全年齢層へ開かれた教会に、子供の声が聞こえないのは、なんと寂しいことか。私たちの信仰は、一代限りで終わるものであってはならない。神がアブラハムを召された時、「祝福の源となるように」創世記12:2と言われ、「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」同22:17と約束された。また、看守がパウロとシラスに、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」と尋ねた時に、二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒言行録16:31と答えた。主を信じるということは、祝福の源になることであり、救いが家族にも及ぶことである。但し、自動的に、放っておいて、そう成るものではない。

「クリスチャンホームの形成」「信仰の継承」について、家庭で出来る事と教会が出来る事があるのではないか。オランダの改革派教会では、年に2回、牧師と執事がペアになって、各家庭を訪問し、聖書を読み、祈り、短い勧めをし、その後、両親や子供にも様々な質問を投げかけ、家庭における霊育を励ますそうだ。聖書教育を教会内の事とせず、家庭内の事とする取り組みは、異教社会に生きる私たちの教会にも求められているのではないか。教会形成は、家庭形成でもある。「クリスチャンホームの形成」「信仰の継承」のために、家庭と教会が協力して取り組むことは沢山ある。

 

飼い葉桶こそ、赤ちゃんポスト

 親が育てられない赤ちゃんを匿名で預け入れる国内唯一の施設・熊本市の慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)は、運用開始から10年となった。構想段階から賛否を巡る論争が続く中で、又、出自を知らずに育つ人権上の課題に直面しつつある中で、幼い125人の命を未来へつないだ。赤ちゃんポストを使用する理由は、望まない子供だった」「子育てできない」「育児ノイローゼになった」「何らかの障害があった」など様々であるが、経済的な理由よりも、親の心の問題の方が大きい。

育児放棄を助長すると懸念される赤ちゃんポストであるが、相次ぐ赤ちゃんの置き去り事件の現状を知ると、その存在の意義を認めずにはおれない。望まない妊娠をして、パートナーと連絡もとれず、親にも打ち明けられず、相談できる人もなく、たった一人で出産し、生まれた子供のへその緒を自ら切ると、立ち上がることすらままならない体で赤ちゃんの捨て場所を探してさ迷う母親にとって、赤ちゃんポストは最後の砦となっているのではないか。残念ながら、すべての赤ちゃんが健やかに育つ良い環境の中で生れてくるのではない。こういう場所が整えられていることは、むしろ悲しい現実を反映したものであるが、ただ病院が決断したように、何より大切なことは、行き場を失った方に救いの手を差し伸べ、命を守ることである。

御子イエスの誕生にも赤ちゃんポストがあった。人口調査のために旅をしたヨセフとマリアは、宿屋に泊ることもできず、馬小屋へと導かれ、生まれた赤ちゃんを飼い葉桶に寝かせた。この飼い葉桶は、2000年後の赤ちゃんポストと言ってもよい。「救いを早く与えてください」との思いをもってナザレからベツレヘムまで旅をしてきたヨセフとマリアの道は、各地から赤ちゃんと一緒に熊本まで来て、「神様、赦してください。救ってください」という思いをもつ母親の道と重なるようにも思える。

飼い葉桶の御子イエスは、赤ちゃんを手離さなくてはならない母親、無責任に育児放棄をしてしまう母親の苦しみや罪を背負ってくださった。そして十字架にかかり、その罪を滅ぼし、赦しと救いを与えてくださった。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」ルカ2:12。飼い葉桶の御子イエスは、「救い主のしるし」である。赤ちゃんポストがキリスト教主義の病院から始まったのは、主イエスは、赤ちゃんも母親も見捨てない、生涯、共に歩んでくださる救い主である、と、気づいてほしいからである。

子供の霊育には、教会と親との協力が欠かせない

本日は「子供の日礼拝」を迎えた。いつも子供たちに礼拝奉仕をしてもらっていたが、子供たちが成長し、子供たちの受浸者が少なくなった今、「もう私は子供ではない」という青年にも奉仕をお願いした。しかし、子供がまったくいない訳ではない。子供たちは私たちの周りにいるが、主のもとに連れてくる機会が少なくなったのだ。

「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」ルカ18:16。乳飲み子たちは、自分の足で主のところに来ることはできない。だから、子供たちを私のところに来させなさいと、弟子たちと親の双方に言われた。つまり、親が子供を連れて行かなければ、また教会が受け入れなければ、子供を主のもとに導くことはできない。子供の救いと霊育には、教会と親との協力が欠かせないのである。

先週、出席した三鷹教会の礼拝では「幼子(おさなご)祝福式」が行われ、2人の幼児が祝福に与った。その式は、親と教会員とが、責任をもって霊育に当たることを約束し、執事が教会を代表して幼子を抱いて祈る、大変よい式であったので、下記に紹介したい。

◇司式者「ただ今より幼子の祝福を行います。この夫婦は神の恵みによって幼子が与えられ、今神の御前にささげようとしています。子どもが与えられることは、神の祝福によることであり、夫婦にとっても教会にとっても大きな喜びであります。私たちはこのことを神に感謝し、幼子を御心に従って守り育てることができるよう、神の助けを祈り求めましょう」

◇司式者「(両親)あなたがたは神の恵みによって与えられた幼子を神の御手にゆだね、主イエスを救い主と信じる信仰を告白する者に育てようとしています。キリスト者の家庭に生まれた者は、祈られた者であり、親と共に神をあがめ、信仰を受け継ぐ者であると、聖書は教えています。あなたがたは、この教えを真剣に受け止めて、次の約束をしてください。あなたがたは、この幼子を健全に育てる親の責任を果たすのみならず、この子に聖書を学ばせ、家庭においても教会においても共に神を礼拝し、あらゆる配慮と祈りをもって、この子がバプテスマを受けるまでの道を整え、またバプテスマを受けてからの日々をも覚えて祈り、共に歩むことができることを信じ、このことを約束しますか」◇両親「約束します」

◇司式者「教会員はお立ちください。あなたがたは、今幼子の両親の誓約を聞きました。あなたがたもこの夫婦が誠実にその責任を果たすことができるように、あらゆる配慮と祈りをもって助けることを約束しますか」◇教会員「約束します」

主の愛に生きる教会

2017年度の上尾教会の主題は「主の愛に生きる教会」、聖句は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ヨハネによる福音書15:12に決まった。この一年、この主題と聖句の下に、歩んでいきたいと思う。当たり前のことだが、「互いに愛し合う」ことは、一人ではできない。一方通行の愛はただの自己満足に過ぎない。二人の内、どちらか一方にだけ命じられているのではなく、私たち一人一人に向かって、「互いに愛し合いなさい」と命じられている。

しかし、私たちは罪人の集まりである。愛したいと願いながらも、人を愛せない自分を見ることはないか。主はただ「互いに愛し合いなさい」と言われたのではない。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。と言われた。つまり主が私たちのことを愛してくださったように、そのような愛し方で互いに愛し合いなさいと言われたのである。私たちが本当の意味で人を愛するようになるためには、主がどのように私たちのことを愛してくださったか、そのことをまず知ることである。

それは主の十字架の愛に端的に表れている。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」ローマ5:6。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」同5:8。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた・・」同5:10。

つまり私たちが立派だったから、神を信じるようになったから、主は私たちのことを愛してくださったのではない。私たちがまだ弱く、罪深い生活をしていた頃から、主に対して敵対心を持っていた頃から、主は私たちのことを愛して、そんな私たちを救うために、主は命を投げ出して、十字架に架かって死んでくださった。つまり、主が私たちの欠点も失敗もあるままに、私たちを受け入れてくださったように、欠点もあり失敗もする、そのような相手を、私たちも受け入れていくのである。

「さやかに星はきらめき」(O Holy Night)の歌詞を思い出した。「“互いに愛せよ”と説き、平和の道を教え、すべてのくびきをこぼち、自由を与え給う。げに主こそ平和の君、たぐいなき愛の人、伝えよ、そのおとずれを、広めよ、きよき御業を、たたえよ、声の限り。」今、世界は、互いに裁き合い、憎しみ合い、傷つけ合っている。「主の愛に生きる教会」として、主の愛を宣べ伝え、その主の愛をもって、互いに愛し合っていきたい。

神ファーストに生きる

最近、「都民ファースト」とか「アメリカファースト」という言葉をよく耳にする。「都民第一主義」「アメリカ第一主義」という意味であるが、悪く言えば、「私さえよければ、他の人はどうなってもよい」ということにもなる。私たちも「私ファースト」になってはいないだろうか?私も先日、子供たちから「信夫ファースト」でけしからんと言われた。

「私ファースト」の行きつくところはどこか。「愚かな金持ち」の例え話では、自分の畑が豊作であった金持ちが、その作物を分かち合うことをせず、自分がこれから先何年も食べたり飲んだりして楽しむために、もっと大きな倉を建て、そこに仕舞い込んだ。すると神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」ルカ12:20と言われた。自分のために仕舞い込んでも、命の保証にはならない。地上を去る時、何一つ持っていくことはできない。「私ファースト」という生き方が、どれほど虚しいかを悟って、悔い改めたい。

私たちをご自身に似せて造られた神は、「神ファースト」に生きることを私たちに願っておられる。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」マタイ6:19-20。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」マタイ6:33。この主の言葉に聞き従って生活してみると、神が必要なものを必ず満たしてくださることを経験する。

「神ファースト」は、お金の使い方にもよく表れる。収入がある時には、真っ先に献金として捧げる。それも「収入の十分の一」を目安として捧げる。すると、無駄遣いせず、シンプルライフが身に着く。最後に余ったら捧げようと思うと、十分な献金はできない。長男は生真面目にも家計簿をつける習慣があるが、献金は支出の項目ではなく、収入の項目に入れていた。尋ねてみると、「献金は天国銀行に貯金するようなものだ」との返事があった。マイナス金利時代、この地上に富を積んでいても一向に増えないが、天に富を積むならば、何倍にも何十倍にもその富が用いられる。

「神ファースト」に生きる時、人生も教会の働きも実を結んでいく。「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。」ローマ15:3(口語訳)。だとしたら、「私ファースト」の生き方を捨てて、「神ファースト」に生きる信仰の道を選び取ろうではないか。

「復元」ではなく、「復活」がある

本日、主の復活をお祝いするイースターを迎えた。2千年前、主は十字架にかけられて死なれ、墓に葬られたが、三日目の日曜日の朝に復活された。主の復活は、私たちに死への勝利をもたらした。イースターは、日本の社会ではまだまだ馴染みがないが、教会では最も大切な日である。もし主の復活がなければ、私たちの信仰も、教会が存在することも、こうして毎週礼拝を捧げることもなかったであろう。

死は、すべての人にとって最大の敵である。今まで死に打ち勝った人は一人もいない。しかし、ここに唯一の例外がある。主はただ一人、復活して、死の力を打ち破られた。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54〜55。死がすべてをのみ込んだのではない。そうではなくて、死は勝利にのみ込まれた。実に不思議な言葉である。死はすべてを取り去ってしまうではないか。死はどうすることもできない壁のように私たちの前に立ちはだかっている。しかし聖書は「死は勝利にのみ込まれた」と語る。それは、死が主の復活の勝利にのみ込まれたからである。だから目の前にどんな苦しみがあっても、必ず勝利することができる。

「復元師」という仕事があるのを聞いた。事故や災害などで傷ついた遺体を生前の面影に近く復元し、本人の顔にかつての笑顔を戻すことを通して、遺族の悲しみを少しでも和らげ、「愛する人の死」を受け入れやすくし、穏やかな別れが出来るようにするという仕事である。復元された面影を見て、遺族は、悲しい中でもそこに亡くした人を一時だけでも「取り戻せた」という思いから、ある種の満足感を味わうそうだ。

私は、「亡くなった方の面影を復元する」というこの話を聞いた時、「私は、もっと素晴らしいことを知っている。もっと素晴らしい希望を、私たちはいただいている」と思った。その希望とは、「復元」ではなく、「復活」である。一時だけ復元されるのではなく、永遠に復活させられる。「復元」の場合は、仮に100%復元されたとしても、また朽ちてしまう。けれど、「復活」の場合は、永遠に朽ちることはない。もはや「失ったり、死んだり、朽ち果てたり」することはない。単に「元の姿に戻る」のではなく、「以前の命と体」よりも遥かに優れた、「朽ちない、霊の体、永遠の命」に変えられる。それが、主が自らの「復活」で示してくださった「復活の希望」である。私たちは「主の復活」を知らないと、「今の命と、今の体」に拘ってしまい、死に絶望する。復活の主を信じることによって、「朽ちない、霊の体、永遠の命」に変えていただこうではないか。

主の十字架の赦しこそ、和解の道

主イエスが十字架の道を歩まれた「受難週」を迎えた。今日は、主がろばの子に乗ってエルサレムに入城され、群集がしゅろの枝をもって、「ホザナ(今、救ってください)」と叫んで出迎えたので、「しゅろの主日」と呼ばれている。そして木曜日には、「最後の晩餐」が行われた。この晩餐の席で、主は弟子たち一人一人の前にひざまずいて、彼らの足を洗われた。主は、体の中で最も汚れた足を洗うことを通して、御自身のかかられる十字架こそ、私たち人間の内面にある最悪の汚れである「罪」を引き受ける救いのしるしであることを示された。上尾教会ではこの最後の晩餐に倣い、水曜日の祈祷会で、「最後の晩餐の再現」を行うので、皆さんの出席を期待している。

金曜日は、主が十字架にかかられた「受難日」である。主は、鞭打たれ、その傷んだ肩に十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで背負って行かれた。そこで、主は十字架につけられ、最期の時を迎えたが、主は十字架につけた者たちのために祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34。一体誰が、何の罪もないのに、迫害する者のために、このように祈ることができるのか。

私たちは、自分のことを理解してもらえず、非難されたり、責められたりすると、「父よ、彼らを裁いてください。」と祈っている自分があるのではないか。そして、うまく行かないことがあれば誰かのせいにしたり、言い訳をしている自分があるのではないか。少なくとも、私にはある。御言葉を聴き、霊で満たされた後も、またすぐに自己中心になってしまう私がいる。主が流された血は、こんな私のためであった。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この「彼ら」とは私自身のことである。この祈りは私のための祈りでもある。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ群集の中に私がいる。議員の中に私がいる。兵士の中に私がいる。ピラトの中に私がいる。彼らの姿は、まさに私たちの姿ではないか。私たちの罪のために、贖いの業を成し遂げてくださった、主の十字架の赦しに感謝したい。

マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのは、1968年4月4日。それは受難週の最中の出来事であった。直後の礼拝で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との祈りが何度も唱えられた。キリスト者は、決して暴力で抵抗しなかった。ただ赦しによって抵抗した。主の十字架の赦しこそ、和解の道であることを知っていたからである。その和解の道を私たちも歩んでいきたい。

 

連盟結成70周年を迎えて

明日、日本バプテスト連盟が結成されて70周年を迎える。E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、1947年4月3日、西南学院教会で日本バプテスト連盟の結成総会が開かれた。参加したのは、日本基督教団から離脱した旧西部組合系の16教会であった。旧西部組合系とは、1889年に米国南部バプテスト連盟国外伝道局(SBC)が、マッコーラム、ブランソン二組の宣教師を派遣、これらの宣教師の働きによって、九州を中心に伝道が始まり、1903年に「西部組合」が結成されたが、第二次世界大戦直前に、日本基督教団に合同し、国家総動員による戦争協力体制を担った。

連盟が結成された時の模様が、今月のバプテスト誌の表紙に、「当時は食糧事情がひっ迫していたため、遠方からの参加者は各自米を持参し、西南学院教会や福岡教会の会員宅に数名ずつ分宿した。ガリ版刷りプログラムの裏面に尾崎主一牧師の筆跡で“3日am9祈祷会、バプテスト結成決す30名出席、手をつないで祈祷”の書き込みが見える」と記されていた。SBCの兄弟姉妹は、敗戦後の日本の復興のために祈り、多くの宣教師を派遣し、教会形成のために多額の献金を送ってくださった。これらの祈りと、人的・物的・経済的支援を受け、連盟の開拓伝道は力強く推進されていく。連盟は「全日本にキリストの光を」のスローガンを掲げ、まず県庁所在地に伝道所を開設し、その教会が拠点となって周辺都市に伝道を広げる開拓伝道に取り組んでいった。

1955年には、当時米軍の統治下にあった沖縄に「国外」宣教師を派遣し、1965年にはブラジルに宣教師を派遣するなど、国外伝道も連盟の協力伝道の大きな柱として進められてきた。現在までに、インドネシア、タイ、シンガポール、カンボジアに宣教師を、またルワンダには、ミッションボランティアを派遣している。

1970年代、教会の存在意義・宣教を問う教会闘争が起こった。そのような中で、世界で苦悩する人々と共にキリストの福音に生きるための種々の活動が行われるようになり、現在では靖国神社問題、日韓・在日連帯問題、公害問題、部落問題、「障害」者と教会、ホームレス支援、性差別問題の特別委員会が活動している。

現在、全国285の教会、38の伝道所が加盟し、協力伝道を進めている。各個教会は、それぞれ自主・独立だが、バプテストの群れに連なる兄弟姉妹として互いに協力し、励まし合って、一つの教会では出来ない協力伝道を推進している。上尾教会も「自立と協力」に基づくバプテスト教会の形成、協力伝道に取り組んでいきたい。

2016年度を振り返って

一年の歩みをパワーポイントで紹介するために、主だった活動の写真をピックアップした。すると、活動の特徴がよく分かった。まずユースクワイアが大活躍した。毎週の礼拝で賛美をリードしてくれたばかりでなく、事あるごとに、素敵なハーモニーで主を賛美してくれた。ユースクワイアは、まさに天使の歌声であった。

「泉のほとり」もほぼ毎月コンスタントに開かれた。教会員の賜物もいかんなく発揮されて、バラエティーに富んだ内容であった。健康のことや食のことなど、生活に密着したことも楽しく学べて、とても豊かな交わりとなった。参加しないと損になる「泉のほとり」となった。祈祷会後に開かれているので、祈りをもって参加できた。

子どもを捉えるために、「ファミリーコンサート」「プレクリスマス」「キッズクリスマス」を行い、多くの子どもたちが保護者と参加できた。それは今までとは違って、子どもの関心を的確に捉えてプログラムを立てたことが、大きな要因であった。但し、教会学校や礼拝への参加にはつながっていないので、それは今後の課題である。

社会問題にも取り組むことができた。「原発」「靖国」「ホームレス支援」「ルワンダでの和解」「憲法」など講師を招いて学ぶことができ、命が軽んじられていることに気づかされた。「教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。」ボンヘッファー「隣人と共に生きる教会」として、人々の声に耳を傾け、善きサマリア人のように「隣人になる」ことを目指したい。決して、虐げられた人たちを見捨ててはならない。

「平和を祈る」と主題を掲げたように、その祈りが行動へとつながった。憲法集会・パレード、首相官邸前のゴスペルの集い、辺野古キャンプシュワブでの座り込み、普天間基地ゲート前でのゴスペルの集いなどに参加し、平和への祈りと賛美を捧げた。叉、ユースは平和月間で、「戦争体験者」から聞き取り、平和の大切さを証した。

協力伝道にも取り組むことができた。上尾教会で開催した集会では、連合諸教会・近隣教会にも呼びかけ、多くの人が来てくださった。又、連合・連盟の諸集会には働き人を送り出した。そして、青年伝道隊、那覇新都心教会への伝道隊、相互訪問では、証し人として大活躍した。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」Ⅰコリント3:9として、協力伝道の喜びや豊かさを経験することができた。一教会では成しえない宣教の課題を、協力伝道によってこれからも担い合っていきたい。

一年の歩みをパワーポイントで紹介するために、主だった活動の写真をピックアップした。すると、活動の特徴がよく分かった。まずユースクワイアが大活躍した。毎週の礼拝で賛美をリードしてくれたばかりでなく、事あるごとに、素敵なハーモニーで主を賛美してくれた。ユースクワイアは、まさに天使の歌声であった。

「泉のほとり」もほぼ毎月コンスタントに開かれた。教会員の賜物もいかんなく発揮されて、バラエティーに富んだ内容であった。健康のことや食のことなど、生活に密着したことも楽しく学べて、とても豊かな交わりとなった。参加しないと損になる「泉のほとり」となった。祈祷会後に開かれているので、祈りをもって参加できた。

子どもを捉えるために、「ファミリーコンサート」「プレクリスマス」「キッズクリスマス」を行い、多くの子どもたちが保護者と参加できた。それは今までとは違って、子どもの関心を的確に捉えてプログラムを立てたことが、大きな要因であった。但し、教会学校や礼拝への参加にはつながっていないので、それは今後の課題である。

社会問題にも取り組むことができた。「原発」「靖国」「ホームレス支援」「ルワンダでの和解」「憲法」など講師を招いて学ぶことができ、命が軽んじられていることに気づかされた。「教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。」ボンヘッファー「隣人と共に生きる教会」として、人々の声に耳を傾け、善きサマリア人のように「隣人になる」ことを目指したい。決して、虐げられた人たちを見捨ててはならない。

「平和を祈る」と主題を掲げたように、その祈りが行動へとつながった。憲法集会・パレード、首相官邸前のゴスペルの集い、辺野古キャンプシュワブでの座り込み、普天間基地ゲート前でのゴスペルの集いなどに参加し、平和への祈りと賛美を捧げた。叉、ユースは平和月間で、「戦争体験者」から聞き取り、平和の大切さを証した。

協力伝道にも取り組むことができた。上尾教会で開催した集会では、連合諸教会・近隣教会にも呼びかけ、多くの人が来てくださった。又、連合・連盟の諸集会には働き人を送り出した。そして、青年伝道隊、那覇新都心教会への伝道隊、相互訪問では、証し人として大活躍した。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」Ⅰコリント3:9として、協力伝道の喜びや豊かさを経験することができた。一教会では成しえない宣教の課題を、協力伝道によってこれからも担い合っていきたい。