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世界食料デー

10月14日、礼拝の中で青年会による「世界食料デー」のアピールがありました。

毎年10月16日を、世界の食料問題を考えて行動する日「世界食糧デー」として国連が制定しました。

「今日、朝ごはん食べて来た人ー!」

全員もれなく「はーい(^o^)/!」

「ご飯食べた人!」  「パン食べて来た人!」  「シリアル食べた人!」

シリアルは殆どいなかったかな。意外にもパンの人は多かったです。日曜の朝、ささっと食べられるお手軽感が良い?(^^)

 

日本に住む私達は、その日の予定や気分でいくらでも食料を選ぶ事ができます。東日本大震災の後、スーパーから牛乳や納豆が無くなった時はものすごくショックでした。でも、それは一時期のことで、今は牛乳も納豆もいろんな種類が陳列棚を埋め尽くしています。

 

だけど、世界を見渡した時、その日一日の命を繋ぐのに必要な分の食事が出来ない人たちがいるって。

私たちが当たり前だと思っている三度の食事がちっとも当たり前でない国があるって。

 

一人ひとりはとっても小さな存在。そんな私に何が出来るのかな。。

 

今日のお昼ご飯代の、もう一食分をみんなで募金しました(^ ^)

 

 

 

命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)      神谷 武宏

沖縄では「戦後ゼロ年」という言葉があります。日本は1945年の敗戦にて終戦を迎えましたが、しかし沖縄では未だ戦争の悲劇が続いています。1952年4月28日、日米の「平和条約」が施行され、日本は米軍統治下から主権を回復しましたが、その条約には沖縄が米軍の直接統治に置かれることが含まれており、日本は沖縄を売って戦後の自由を獲得するのです。沖縄では4月28日を「屈辱の日」と呼んでいます。

沖縄は1972年に「戦後」27年を経て日本への「復帰」となりましたが、その時の思いは日本国憲法の下に身を置くことに希望を見出したのです。憲法の下では沖縄に米軍基地があり続けることは違法であり、自ずと整理縮小へと向かう事を期待しましました。しかし「復帰」後も米軍基地は在り続け、在日米軍基地の70,3%が日本国土の0,6%にすぎない沖縄に集中しています。この現状は日本国憲法よりも日米安保、日米地位協定が上にあるということです。

沖縄は「戦後」70年余、常に米国の戦争に巻き込まれ加担させられ続けます。また米軍がもたらす事件事故は後を絶たず、2016年4月にまたしても20歳の女性が拉致強姦、殺害遺棄されました。この現状は戦後でしょうか?「命どぅ宝」は沖縄の金言です。その金言(歴史)に逆行する状況は“悲しみ”そのものです。

「命どぅ宝」の言葉が生まれたのは琉球の政治家「蔡温」(1682~1762)の影響が大きいと言われます。彼が残した言葉に「何ものにも勝って命こそが大切である。他の全てのものは失っても取り戻すことができるが、命だけは取り戻すことができない。何よりも命を大切にすべきである。」この言葉は琉球の思想として受け継がれています。ゆえに琉球には戦争をするという想定はないのです。

1879年、日本(明治政府)による「琉球処分」が行われました。「処分」とは日本の政治的視点であり、琉球から見れば「琉球併合」の何ものでもありません。日本は軍隊、警察官合わせ600人余をもって琉球を制圧します。この時、琉球国最後の王であった尚泰が首里城を明け渡す決断をしますが、その背景には祖国が滅びゆく中で武器を手にして戦う若者がいたのです。命を粗末にしてはいけないと首里城を明け渡すのでした。その歴史背景が、後に琉歌「命どぅ宝」が生まれます。

戦(いくさ)世(ゆ)んしまち/みるく世(ゆ)ややがてぃ/嘆(なげ)くなよ臣下(しんか)/命(ぬち)どぅ宝(たから)(戦争の世は終った/平和で豊かな世がやって来る/嘆くなよおまえたち/命こそ宝)、国は滅びても人の命に勝るものはないという先人の教えがここにあります。この琉球の歴史は聖書の教えと重なるように思えます。       (普天間バプテスト教会牧師)

私から始める、世界が変わる!

今、世界の飢餓人口は8億人、9人に1人が飢餓に苦しむ、5秒に1人の子供が飢餓が原因で亡くなる。これは食べ物が足りないからではない。なぜなら、毎年世界では、23億トンの穀物が生産されて、もしこれが世界に住む73億人に平等に分配されていれば、一人あたり年間330kg以上食べられることになる。日本人が実際に食べている穀物は、年間160kg。世界では穀物に加えて野菜などの生産があることを考えれば、世界中の人たちが十分に食べられるだけの食べ物が生産されている。

飢餓の原因は、食料の不足が原因ではなく、人間の貪欲さであったり、社会システムであったり、不平等な文化にある。ボンへッファーは、「誰かが自分のパンを自分のためにだけ取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の掟である。」と警告を鳴らす。飢餓状態にある子供の80%は、余剰食糧を生産している国の子供たちである。輸出用(つまり日本などの先進食糧輸入国)の食糧を生産している隣りで、食べることがままならないという状態で過ごさなくてはならない子供たちが大勢いる。つまり、食糧支援を行うだけでは、根本的な解決には全く繋がらない。

5つのパンと2匹の魚」とを持った少年が、それらを「進んで捧げる」ことによって、皆が満腹するという奇跡が聖書に記されているが、これは富の偏在に苦悩する世界に与えられた希望である。主は、「お前たちは、わたしが植えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:35-36、40 と言われた。トルストイはこの御言葉を読んで、「愛あるところに神あり」(靴屋のマルティン)という民話を書いた。トルストイは、目の前にいる困っている人こそ、イエスだと気づいた。

日本国際飢餓対策機構の標語に、「わたしから始める、世界が変わる」とあった。愛が行動に表わされ、これが一人また一人と広がる時に、支えられる人も支える人も、心豊かにされ、飢餓と貧困に苦しむ人が必ず救われると信じる。「愛の反対は、憎しみではなく無関心ですマザー・テレサは語る。愛は、相手に関心をもつことから始まる。私たちも飢餓に苦しむ人々に関心をもち、愛を見える形で表していきたい。そして愛の冷えた社会で本当の豊かさを分かち合いたい。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と、世界中の人々に食物が与えられることを、主に祈り求めていきたい。

召天者記念礼拝

9月30日の礼拝は、天国の懐かしい方々を記念する『召天者記念礼拝』でした。

とびきりの笑顔の写真を見ると、一緒に教会で過ごした日々がついこの間の事のように思い出されます。

でも、あの頃赤ちゃんだった子が社会人になってたり、はたまたママになってたり…。時は流れてるんだなぁと、感無量(*´꒳`*)

 

 

季節も変わりました。講壇のお花は秋桜🌸

 

 

変えられる喜び

10月「教会学校月間」を迎えた。分級では、御言葉を一緒に聴き、聴いた御言葉を分かち合い、その御言葉に押し出されて生活することを願っている。それは「変えられる喜び」を分級で味わうことでもある。先月、教育委員会で学んだ『教会学校ブックレット』の中に「変えられる喜び」という文書が目に留まったので以下に紹介したい。

“私たちは神のみ心を聞きたいと願って、聖書を共に開きます。その時に必要なのは聖書を「わかっている」人でも「学び終えた」人でもありません。「わかりたい」と願って手を伸ばし続けている人です。常に聖書の前でルーキー(新人)である人のことです。初めて聖書を開くように読み、互いの考えを聞き合います。すると、これまでの自分の捉え方が揺さぶられ、殻が破られていくような体験が与えられます。聖書を真ん中にしたところでは、幼児や新来者にベテランのリーダーが「教えられる」ということが常に起こり得るのです。

私たちが正直に接し、忌憚なく意見交換をする場合、時にお互いの間に緊張が走ることもあるでしょう。しかし、聖書には常にひっくりかえされる人間が描かれているではありませんか。自分にとって受け入れがたい出来事の突入によって、今までの「安定」に亀裂が入り、砕かれてしまう人間です。でも、そういう営みをくぐってこそ、より自由に、より開かれ、より分かち合えるお互いに成っていくという約束を聖書は私たちに告げています。これが聖書の神の「交わり」「平和」の創り方なのでしょう。確かに痛みを負うこともありますが、「神にひっくりかえしてもらっているお互いなのだ」という信頼がそこで育まれていくのです。主イエスはおっしゃるでしょう。揺さぶられ、壊され、立ち尽くすときこそ「産みの苦しみの始まり」だと。「見よ、新しいものが生じた」と。この主の約束をもらっている嬉しさを、それぞれの教会学校の現場で思う存分味わいましょう。“(第一章 教会の使命 P4)

変えられることは、喜びと共に、痛みをも伴うことが多い。それは「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ18:4とあるように、陶工である神に自分が壊されるという経験をするからである。今まで通りの生き方の方が楽であり、安心であるかもしれないが、それではいつまで経っても「変えられる喜び」を経験することはないだろう。分級で、御言葉を聴き、御言葉を分かち合うことによって、お互いに自我が打ち砕かれ、新しく作り直されるとしたら、これほど幸いなことはない。成したまえ 汝がむね 陶作り わが主よ われはただ 汝が手の うちにある 土くれ」新生讃美歌627

真の「終活」とは何か

「葬儀の事前準備なんて、縁起でもない!」は、一昔前の話。最近では「終活」が大流行である。人生の最期、誰にでも訪れる死に備えるもので、遺産や身の回りのことを整理したり、葬儀やお墓のことを決めたりと、自分の希望を元気な時に周りの人に伝えておくことは大切なことである。しかし、ただ葬儀の準備ができたから、お墓を建てたから、それで死に対する備えができたかと言うと、そうではない。

真の「終活」とは、死んだ後、いったい人間はどうなるのかを知って備えることである。多くの人がこの答えを知ることなく、死んでいく。聖書には、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」ヘブライ9:27と記されている。前半の「一度死ぬこと」は誰でも受け入れるが、後半の「その後に裁きを受けることが定まっている」は、殆どの人は受け入れてはいない。私たちは死後、神の前に立ち、神の審判を受けなければならない。ですから、「お前は自分の神と出会う備えをせよ。」アモス4:12と警告している。私たちは神の法廷で、被告人として神の前で裁かれるが、その時、私には罪がないとは言えず、自分の力で自分の罪の清算をすることはできない。誰もが、永遠の滅びを宣告されたとしても不思議ではない。

それではどうしたら、私たちの罪は清算されるのか。聖書はこの問いに対して喜ばしい知らせを伝えている。それは、私たちに代わって罪の清算をしてくださった方がおられる。その方こそ、主イエス・キリストである。主は、私たちの罪を負って十字架にかかり、身代わりとして神の裁きを一身に受け、三日目に墓を打ち破って復活してくださった。この主イエス・キリストを、救い主と信じるだけで、すべての罪は赦され、死後、神の法廷で永遠の救いに与ることができるのである。

死は、恐れを生み出す。また愛する者が亡くなった時、残された者に大きな悲しみや癒しがたい喪失感を生み出す。しかし、イエス・キリストを信じる者にとっては、死は地上の生涯を終えて天国に至る通過点にすぎない。死を通して、もっとすばらしい世界が開かれている。パスカルは、「私たちの死に対する不安は、自分たちの死を他人の死と比べるところから始まる。しかし、イエス・キリストの死を思い起こす時、死の不安は消え、新しい希望が与えられるのである。」と語っている。キリストの死によって、死は勝利に飲み込まれた。主の御許に召された信仰の先達者に倣って、死を超えた復活の希望を持つことが、地上の生涯を勇敢に生き抜く秘訣である。