Author: ageo

Home / Articles posted by ageo

愛は無関心であってはならない

最近、米軍基地や原発問題を漫才にした、お笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」が話題になっていたので、私もyou tubeで観た。すると、その笑いの中にも、笑えない事実が指摘されていることに気付かされた。

「東京で行われるオリンピックは?日本全体が盛り上がる」「沖縄の基地問題は?沖縄だけに押し付ける」「楽しいことは?日本全体のことにして」「面倒臭いことは?見て見ぬふりをする」「在日米軍に払っている金額は?9465億円」「そういった予算は何という?思いやり予算「アメリカに思いやりをもつ前に沖縄に思いやりをもて!」と観客席を大いに盛り上げて、最後に「だから本当に危機を感じないといけないのは?被災地の問題よりも、原発問題よりも、基地の問題よりも、北朝鮮問題よりも、国民の意識の低さ!」そして観客席に向かって、「お前たちのことだ!」と締めくくった。

お笑い業界では、時事ネタ関連はタブー視されており、クレームなどのリスクを考慮してあまり触れるグループはないようだが、ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏はこのような風潮に疑問を投げ掛け、遂に時事ネタを大々的に披露した。「社会問題に関心はなかった」という村本さんは、友人でジャーナリストの堀潤さんから沖縄の歴史を学び、「沖縄戦で10代の少年が銃を持たされ、今も米軍基地の7割が集中する。それは理不尽。日本にとって沖縄は何なのか」という疑問を素朴に感じたという。

そして、「日本で本音をいうと炎上する。うそばかり建前の国だ。ゴールデンのお笑い番組で辺野古、原発という言葉が出ただけで大騒ぎする。笑いは王様や権力の上にある存在だと思う。リア王では芸人(道化師)が王の間違いを指摘した。社会に牙をむき、かみつくのが芸人だが、首輪をされた芸人ばかりでテレビがつまらない。基地や原発のネタの後、お笑いをやって初めて『ありがとう』と言われた。その言葉を各地で返したい。沖縄や仮設住宅で一生懸命訴える人の話を聞き、フラストレーションをお笑いに変える。無色の空気やニュースにネタで色を付けたい。」と持論と抱負を語っていた。

マザーテレサは、「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である。」と言ったが、この社会の只中に存在する教会、私たちキリスト者も、社会の出来事に無関心であってはならない。理不尽なこと、差別や偏見で苦しむ人がいるなら、自分の表現方法を用いて、声を上げていこう。「主の愛に生きる教会」として、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」ヨハネ15:12この主の掟の実践が問われている。

私は犬にさえなります

今年の干支は「戌(犬)」「犬」という単語は聖書に54回登場するが、その内、45回が旧約聖書で、9回が新約聖書である。残念ながら「犬」は、聖書の中ではあまり良い場面には登場しない。旧約では、死体の血を舐めたり(列王上22:38)、自分で吐いた物のところへ平気で戻ったり(箴言26:11)、廃墟と化した町に住み着いて荒廃のシンボルになるような(エレミヤ9:10)、汚く危険なイメージの動物であった。

新約でも、パウロが福音の意味を失わせるような教えを宣べ伝える人々を「よこしまな働き手」として「あの犬どもに注意しなさい」フィリピ3:2と悪人の代名詞として「犬」を用いたり、また、「すべて偽りを好み、また行なう者」として「犬のような者」黙示録22:15が一番に挙げられている。そして、何よりも主ご自身が「聖なるものを犬にやるな」マタイ7:6と言われた。このように「犬」とは、ひそかに人の隠し事を嗅ぎつけて告げる者、まわし者、また、卑しめ軽んじてくだらない者、無駄な者を表す。日本語でも、何の役にも立たない死に方をすることを「犬死」と言うことからわかる。

しかし、今日、「犬」は人間の手助けをする忠実な動物になっているのではないか。盲導犬も介助犬も救助犬も、否、慰めをもたらすペットの犬も、人間の命と生活を支えるために、無くてはならぬ存在である。そして、犬から学ぶべきことは多い。藤井健児(香住ケ丘教会名誉牧師)からこんなお話を伺った。「普通の犬や動物は条件反射で反応するが、盲導犬は愛情に反応するのです。セイル(三頭目の盲導犬)は教会の中に入ると、シッポを振るのをぴたりとやめる。私と一緒に壇上に上がると、ただちに伏せ、お祈りの間は、足を組んで顔を床に着ける。セイルもお祈りしているのではと思っている人は多い。そして最後の”アーメン”になると”さあ終わった”と命令を待つ形をとる。その姿を見て、礼拝に出席している人は驚くと共に、自らの礼拝姿勢を正されています。」

私たち人間も「愛情に反応する」ことが本来の姿ではないか。「小犬」と呼ばれたカナンの異邦人の女性もそうであった。彼女は主に何と答えたか。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15:27。これは「私は、わが子のためなら犬にさえなります。だから、娘を治してください。」という願いである。この母親にとって、「犬」と侮辱されようが、娘が治るのならそれでいいと言い切った。その姿勢に主は、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」マタイ15:28と言われた。「私は犬にさえなります」こんな愛情豊かな生き方をしたい。

 

感謝すべき事

今年、感謝すべき事が沢山あった。まず岡田愛子姉がバプテスマを受け、教会員としてお迎えできたことである。吉田ハマ姉が30年前、「愛子が救われますように」と祈り始めた祈りが私たちにも引き継がれ、実を結んだ。旧知の吉高国彦先生に伝えたところ、「今日は不可能かもしれない。明日は不可能とはいえない。大切なことはビジョンです。」と寄せてくださった。家族の救いに不可能はない。いつの日か主の救いに与り、一緒に礼拝を捧げる日が来るというビジョンを抱くなら、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ローマ12:12が、日々の歩みとなるだろう。

協力伝道の豊かさを経験した一年であった。那覇新都心教会へ伝道隊を派遣し、教会の皆さんと「神のために力を合わせて働く」ことができた。高江や辺野古では反対派の方々と出会い、普天間基地前ではゴスペルを歌い、基地のない沖縄になるように、祈りを合わせることができた。また、旭川への「隣人に出会う旅」、太田教会への「青年伝道隊」、日立教会との「相互訪問」では、とてもよい奉仕と交わりができた。

「地域に開かれた教会」が実現した一年であった。三井会館の建て替えに伴い、半年間、三井住宅の方々が毎週、様々な活動のために上尾教会を利用された。コンサートや防災講演会には、満席になるほどの人出であった。そして「泉の会」の方々と一緒にクリスマスを祝うことができた。住民と親しくなったので、集会にも誘いやすくなった。来年も、地域の方々が参加しやすい集会が開かれることを期待したい。

最後に感謝すべき事は、長年の夢であった牧師館が最善の場所に与えられたことである。「主よ、わたしたちのために大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」詩編126:3と祈りを合わせたところ、献金と融資目標は見事に達成された。牧師館が与えられたことによって、教会がさらに発展することを期待したい。

「年は去らんとす。感謝である。年は来たらんとす。感謝である。今年もまた善き事があった。感謝である。悪しき事があった。感謝である。万事万物が感謝である。何ゆえにしかるか?神のみ心が成ったからである。彼のみ栄えが揚がったからである。・・・神は年々歳々、その聖業を進めたもう。そうして今年もまた一年だけみ心は成り、栄光が挙がった。ゆえに感謝である。」内村鑑三『続一日一生』

主の貧しさによって、豊かになる

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ルカ2:11

クリスマスの日に、なぜ神の御子がお生まれになったのか。それは、私たちを罪から救うために、私たちに代わって、一切の罪の裁きをその身に担われるためであった。この主イエスによってもたらされる神の救いから除かれる人は一人もいない。すべての人がこの神の救いに招かれている。自分は神から見捨てられている、そう思って生きる希望と勇気とを失いそうになっている人々に向かって、神は「わたしはあなたを見捨てない。わたしはあなたと共にいる。あなたの苦しみ、嘆き、痛み、不安、そのすべてをわたしは知っている。わたしはあなたを愛している。」そう告げられる。

その神の御心を現したのが、神の御子の姿である。だから、主イエスは馬小屋で生まれ、平凡な夫婦であったヨセフとマリアが父と母となり、ヘロデ王の虐殺を恐れてエジプトに難民として逃れ、犯罪人と共に十字架の上で死なれた。主の生涯は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所 もない。」ルカ9:58。私たちのためにここまで小さくなられ、私たちのためにここまで貧しくなられた。

私たちは、自分のことしか考えることが出来ず、それが他者との関係を、神との関係を破壊し、断絶してきたのではないか。そんな私たちのために、神は、神の独り子を、最も小さい、最も貧しい者として、この世に遣わされた。これは常識的にはあり得ないことである。祈祷会で「愛するわが子を、人々の救いのためとはいえ、死なせる親はどこにいるでしょうか。」という意見があったが、親自身が死ぬならまだしも、わが子を死なせる親はいない。しかし、父なる神はそうではなかった。これが人知を超えた神の愛である。この愛が現されたのが、クリスマスの出来事であった。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」Ⅱコリント8:9。私たちが豊かに生きるために、主イエスは貧しくなられた。主ご自身が身を捧げ、最後の一滴まで血を流し、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらしてくださった。この主の恵みに応えるただ一つの道は、生涯、主を礼拝し、主に仕える者として歩むことである。ハンセン病を患った玉木愛子さんは、この主の恵みに対して、「目をささげ、手足をささげ、降誕祭」と詠い、生涯、主の愛を証し続けた。苦しみと悲しみが、感謝と喜びに変わった。主の貧しさによって豊かにされた私たちも、生涯を主に献げていきたい。

 

地には平和

先日、普天間基地に隣接する保育園と小学校に米軍ヘリから部品が落ち、危うく大惨事に繋がるところであった。保育園は普天間バプテスト教会付属で、私も訪ねた時、真上を米軍ヘリが爆音を轟かせて行きかい、今にも落ちて来るのではないかという恐怖を感じたのを覚えている。子供たちや保護者、保育士や神谷牧師は、どれほど緊張した毎日を送っておられるだろうか。日本国憲法第25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と謳われているが、沖縄では憲法が保障するその権利さえ奪われている。私たちは沖縄の人々の叫びを聞いて、「基地はいらない」と、共に声を上げていきたい。

クリスマスという出来事の中にも、個人の権利が奪われ、人間扱いされない人々が登場する。当時、ローマ帝国は人頭税を取り立てるために、全植民地の人数を調べるために住民登録をさせた。ユダヤの民はすでに重税に苦しんでいたが、さらに取り立てられた。妊娠中のマリアはナザレ村からユダヤ地方のベツレヘム村まで約100キロの旅を強いられた。そして自宅ではなく旅先で生むことになる。しかも宿屋は満員で、マリアは衛生状況の悪い馬小屋でしか生めなかった。また、野宿をしながら徹夜の羊の番していた羊飼いたちも、律法を守れない職業の人として人々から軽蔑され、街から締め出され、まったく割の合わない重労働の仕事を担った。

しかし、その彼らが神に選ばれ、神の御子の第一発見者となるのである。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ルカ2:11。この世界で力を持ち、力を振るっている人ではなく、力を奪われている人にだけクリスマスの出来事は伝えられた。人間扱いされなかった御子イエスは、人間扱いされていない羊飼いと深く関わり、救いの喜びをもたらしたのである。

天使の大軍は突然歌い出す。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14。戦争が無いことが平和なのではない。たった一人でも人間扱いされていない人がいれば、地上には平和は実現していない。クリスマスは子供も含め人間扱いされていない人を救い出すために、イエス・キリストがお生まれになった出来事である。「今日ダビデの町で」個人の権利が奪われている人々が住む町で」と読み替えてみよう。「たいせつな命 戦争しない」のバッチを心に刻みたい。