Month: 2月 2020

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愛はすべてを完成させるきずな    教会員

私は、3月7日に婚約者と結婚式を控えており、準備の中で自分のこれまでの人生の歩みやこれからの歩みをよく考えることがあります。特に結婚カウンセリングの中で、”愛”とは何かの問いかけを神様より頂いています。

2019年12月4日、アフガニスタンにて襲撃された中村哲医師のニュースを通して、大きな悲しみを抱き、その活動の大きさを知りました。クリスチャンでもある中村医師は、過酷な地で医療の域を超えて、現地で生活している方々のために干ばつに対する水不足・食料不足に立ち向かっていたことに尊敬の念を持ちました。困窮により戦争が起こると考え、平和を実現しようと活動する姿は、私の心に深く残りました。中村医師の活動は、人のために心から尽くす、まさに”愛”なのだと感じます。

上尾教会での歩みも33年目を迎えようとしています。クリスチャンとしての大きな恵みは、神様の存在を知り、誰かのために尽くす喜びを感じることにあります。私自身、多くの方たちに祈られ、励ましと慰めから”愛”を与えられてきました。それは、見返りを求めた行動ではなく、相手のことを思う無償の愛でした。その愛に幼い頃から触れたことは、私の人生で大きな財産となっています。婚約者は、私の中にある教会で学んだ”愛“に惹かれたと言ってくれています。神様が結婚を整えてくださっているのだと強く感じました。

マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。」と言いましたが、私たちは、自分のことだけに関心を払い、周りにいる人のことに無関心であったり、傍観者であったりすることがあるのではないでしょうか。私も、すぐに自己中心になり、神様の存在を忘れることがありますが、これからは、主と共に歩み、人を愛することを求めて生きたいです。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」

コロサイの信徒への手紙 3章12~14節

 

主の忠実な管理者       教会員

私に今、与えられている奉仕は、友愛チーム(車での送迎)、伝道委員、会堂掃除(年4回)、雑草取り、礼拝時の受付(第4週)です。大変なのは、雑草取りです。夏の暑さ、冬の寒さ、雨の日など、天候に左右されます。始めるにあたり、継続できるか不安がありました。なんとか10年以上続けることができている恵みに、感謝です。

『主の忠実な管理者として』の教本から学びました。

私たちクリスチャンは教会員として、主に対する務めを果たす責任を持っています。「奉仕」などに気が乗らないこともあるでしょう。しかし、責任として、自分を強いてしなければなりません。私たちは、キリストの体の肢体です。もし、責任をないがしろにすれば、他の肢体(教会員)に負担をかけてしまいます。そのために、他の肢体に傷を負わせることさえあるのです。責任感も、御言葉をよって育まれます。なぜなら、責任を果たすことは、共に働く者に対する愛の行為だからです。

忘れてはならないことは、私たちが神によって選ばれたとするならば、その選ばれたことに対する責任は非常に大きい。選ばれた者は、選ばれなかった者以上に、きびしく問われる存在なのである。そして、選ばれたのは、神に「仕える」ために選ばれたのである。神の恵みを、福音を、地の果てまで宣べ伝えるために、選ばれたのである。そういう器として選ばれたのである。

主イエスは「明日のことを思い煩うな」と言われた。それは、明日は明日の風が吹くので、その場限りの生活をせよ、と言われたのではない。明日は、神のものだから、それは神に「委ねて」、むしろ、今日与えられた使命にしっかりと立って生きていく、それが大事だということである。

「主日礼拝」「祈祷会」を優先して、神にささげ、隣人に「奉仕」することへと広げる生活設計を立てましょう。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイによる福音書6:34

小さな奏楽者  教会員

私は小学2年生のクリスマスにバプテスマを受けて、その翌週から礼拝の奏楽者になりました。今からもう30年近く前の話です。あの時は特に不思議には思いませんでしたが、今考えてみると“なんて小さい子供がピアノを弾いていたんだろう”と思います。

当時、上尾教会には礼拝の前に「アッセンブリーアワー」というゴスペルを歌う時間がありました。私はその時間をとても楽しんでいたと思いますが、会衆の歌声を聞いて弾くというのには程遠く、何やら好き勝手に弾いていたと思います。弾く時になって、楽譜の用意をしておらずパニくる、会衆がついていけないスピードで弾く、ということも多々ありました。旧会堂ではアップライトピアノが壁に向かって置かれており、奏楽者は講壇に背を向けて座る状態でした。バプテスマがある時は、講壇を外してその下の水槽に水を貯めていたため、すぐ横でピアノを弾いていた私は、いつピアノの椅子が動いて私ごと水の中に落ちてしまうのではないかとヒヤヒヤしていました。またある時は、葬儀でピアノを弾くこともありました。自分のすぐ後ろに置かれた棺に泣きつく家族、その悲しみを背中に感じながら弾いたピアノはとても重たかったのを、子供ながらによく覚えています。

こんな私の奏楽人生ですが、いつもその奉仕の背後には教会の皆さんの祈りと励ましがありました。私が弾くピアノを皆さんが喜んでくださる、それが私にとっても嬉しかったです。旧会堂時代、人が入りきれなくなった時から1日に2回礼拝を捧げるようになりました。そうなると、奏楽も1日に2回まわってくることがあり、正直「面倒くさい」という空気を前面に出しながらピアノを弾いていたこともあります。それでもやはり、教会の皆さんは喜んでくださいました。「真奈ちゃん、今日もピアノよかったよー」と声をかけてくださいました。小さな奏楽者は、皆さんの忍耐と愛によって育てられてきたのです。

そして、神様もどんなにかこの小さき者の奉仕を喜んでいてくださったことでしょう。イエスを背中に乗せた子ロバのように、人間の目には取るに足りない者でも、主は十分に用いてくださるのです。余裕のない日々を過ごす私にとって、奉仕は時に負担に感じる時もあります。それでも、神様の喜んでいる姿を思い浮かべる時、なんとも言えない幸福感に心が満たされるのです。だからこれからも、与えられた賜物を用いていきたいと思います。

愛の共同体         教会員

私は、神をよく理解しないまま、「神を信じた」。現在、私は信仰告白委員、礼拝委員、財務委員、総務委員(慶弔委員)として神様に用いられている。驚くことに、慶弔委員を機に、キリスト教葬儀社に転職をした。私は、自分でも止められない急な流れに、今身を任せるしかない。

上尾教会は、イエス・キリストをかしらとする「愛の共同体」である。私たちは、このキリストにある交わりの共同体の体をしっかりと整えて初めて、神の福音を隣人に宣べ伝えていける。しかしながら、信徒の高齢化が進み、奉仕者が限られてきた。従って子育ても終わり、車の運転が可能で、時間の余裕のある私が、4つの奉仕を任されているのである。何度も奉仕が多いというアピールをしてきたが、一笑に付される。とても私に、これらの賜物があるとは思えない。なので、秋山牧師は、気の毒なぐらい熱心に私を教え育ててくださるのである。

かつて執事をしていた時、神学校の信徒説教の学びをさせて頂いた。そこでの気づきが、私の教会観を変えた。信仰告白委員になり、キリスト教の信仰告白の歴史から、各教会の信仰告白文を学ぶことにより、自分の教会をそれまでと違った角度から考えることができた。総務委員として奉仕をしていると、教会の教勢、会堂の設備、備品、奉仕、教会員のことに目を向け、財務委員として現在の教会の経理全般を考えるようになった。私は、様々な学びをすればするほど、知恵や技術ではなく、「祈り」の大切さを知る。神様でなければできないことだらけである。まさに、身をもって「愛の共同体」を感じるのである。

しかし、奉仕ができないから神様との関係が浅いというのでは決してない。神様は、全ての人に対し、それぞれの形で神様との関係を深めていくご計画がある。神様は、お一人おひとりを愛してくださっているからである。力のない自分がどう用いられるか、計り知れないが、楽しみになる。私は、自分に与えられた奉仕を通して、教会での主にある交わりを豊かにし、神様との関係を深めていきたいと心から願う。そして、神様の愛をこの教会で、一人でも多くの人に伝えていければ幸いだ。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」エフェソの信徒への手紙4:16