Month: 1月 2020

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命にもまさる恵み

生きる上で一番大切なものは何か。それは「富」でも「名声」でもなく、「命」である。主イエスも、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」マルコ8:36‐37と言われ、富や名声、財産をどんなにたくさん得たとしても、自分の命を買い戻すことができないほど、命は大切なものであると教えられた。それ故に、親はわが子が危険な目に遭いそうな時、「あぶない」「ダメ」と大声で自分の命を守ることを教えるのである。

それほど大切な命であるが、先週の祈祷会で学んだ詩編63:4には、「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。」と記されていた。主の慈しみは、命を超える恵みとして私たちに与えられているという。この「命にまさる恵みとは何か。そのことを考えていた時に、星野富弘さんの詩を思い出した。いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」この「いのちより大切なものがあると知った日」とは何か。それは星野さんにとって、主イエスに出会った日。主に出会い、罪を赦していただき、神と共に生きる永遠の命に与った時から、不自由な生活の中でも、生きているのが嬉しくなったのではないか。

樋野興夫先生も、命が尊いことは確かですが、“自分の命よりも大切なものがある”と思ったほうが、私たちは幸せな人生を送ることができるようです。“命が何よりも大切”と考えてしまうと、死はネガティブなもの(命の敵)になり、ある時を境に死に怯えて生きることになります。命よりも大切なものを見つけるために、自分以外のもの、内から外に関心を向けてください。あなたに与えられた人生の役割や使命が見えてくるでしょう。」と語られていた。

「自分の命より大切ものがある」と気づく時、愛や信仰、正義や自由のために自分の命を投げ出しても惜しくないと思えるのではないか。アウシュビッツで「私は妻子あるこの人の身代わりになりたい」と申し出て代わりに死んだコルベ神父にとって、見ず知らずの人の命は自分の命より大切なものであった。『平和の祈り』の中に、「死ぬことによってのみ、永遠の命に生きることを深く悟らせてください」という言葉があるが、その永遠の命に与るために、自分の命を捧げることもいとわないとする行動(使命)が生まれるのではないか。「使命」とは、「命を使う」身を削ることである。主は私たちのために尊い命を捨ててくださった。それによって、罪赦され、永遠の命に与ることができた。この主の慈しみに応えるところに、「命にまさる恵み」に与ることができるのである。

主に望みをおく人は新たな力を得る

主に望みをおく人は新たな力を得る

「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」イザヤ40:31。今年度のこの聖句を、噛みしめている方も多いことだろう。私たちの人生には、病気や心労のために、弱ることや疲れることが何と多いことか。先週のアシュラムの時、一人の方が証をしてくださった。癌にかかり、医師からは「もはや手術ができない状態です」と言われて落ち込んでいた時、アシュラムの仲間が色紙に慰めの言葉を贈ってくださった。その言葉に励まされ、手術をしてくださる医師にもめぐり逢い、関西の病院にまで行って手術を受けられた。「私はこんなに元気になりました。神様に委ねるとはどういうことか学びました。生かされた命を神様のために用いたいです。」その言葉に、私たちもどれほど励まされたことだろうか。

外的条件が整った人が「新たな力を得る」のではない。そうではなくて、「主に望みをおく人」が疲れから解放され、「新たな力を得る」のである。私たちは、常に何かができる自分の方に目を向けがちだが、「望みをおく」ことの中心は、自分の無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことである。できるとか、できないとかの人間的な枠を超えて、神の御業に期待することである。今、「主に望みをおく人」の心に、主ご自身が入って来てくださり、死に打ち勝たれた主の力が働くのである。

私たちの造り主に望みをおく信仰以外に、弱り果てた心を再び強くし、命を得る道はない。私たちが今、疲れ果てているならば、命の根源である神への信頼を失っていないかどうか点検してみる必要がある。私たちは、いずれ死に至る。そういう意味において、私たちは徐々に弱り果てていく存在である。それなのになぜ、「鷲のように翼を張って上る」ことができるのか。それは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネ11:25と主が言われたように、主を信じる者に、「永遠の命」が与えられたからである。だから、「死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。」詩118:17という主から託された、尊い、喜ばしい使命が私たちには与えられている。

神の恵みを語り伝える時、人は生きている喜びを最も感じることができる。この喜びは、この世からは決して得ることができない喜びである。私たちは主から新たな力を得て、「主に望みをおく私は、鷲のように強く生きることができる。」と主を証し、行く先々で、主の御業を語ることができる。主に望みをおく、「信仰の翼」があれば、たとえ困難な状況にあったとしても、そこから飛び立つことができるのである。

みんな「おんなじいのち」

「ずっとこの生活を続けたいから、もう(放火は)繰り返さない。こんな気持ちになったのは初めて」小柄な男性が米寿の祝いにもらった色紙と花のポットを自室で誇らしげに見せてくれた。北九州市に住む福田九右衛門さん(88)は軽度の知的障害があり、前科11犯。だが、刑務所を最後に出所した2016年から3年以上、穏やかに地域生活を営んでいる。福田さんを支えるのは同市のNPO法人「抱樸(ほうぼく)」約30年間ホームレス支援の活動をしてきた牧師の奥田知志理事長(56)が設立した。法人本部の「抱樸館」の中にある「ついのすみか」と呼ばれる天涯孤独な人のための施設が、福田さんの住まいだ。

福田さんは74歳だった05年12月末、刑務所を出所。行くあてもなく、万引をして警察に保護されたり、自治体の福祉事務所に連れていかれたりした。だがどの公的機関もその場限りの対応に終始し、福田さんに居場所を提供することはなかった。出所から8日後の06年1月上旬。寒さをしのいでいたJR下関駅の木造駅舎を追い出されると、未明にライターで火を付けた旅行パンフレットを駅舎脇の段ボールに投げ入れ、駅舎を焼失させた。逮捕後、動機について「刑務所に戻りたかった」と供述。累犯障害者の象徴的な事件だった。

事件の4日前、福田さんが立ち寄った北九州市でホームレス支援の新年の炊き出しをしていた奥田理事長は「あの時に巡り合っていれば…」と、痛恨の思いで逮捕後から面会や手紙のやりとりを重ねた。08年3月の山口地裁判決は懲役10年。奥田理事長は「社会の中で生き、死んでいくのがあなたの責任。待ってるよ」と伝えた。福岡県の「地域生活定着支援センター」の運営も受託するなど環境を整え、約束通り、仮出所した福田さんの身元引受人になった。「それまで刑務所に迎えに来てくれた人はいなかった。うれしかった」福田さんは今も当時の感激を口にする。出所後には下関駅を訪れ、謝罪。一時はふらっと行方をくらますなど不安定な時期もあったが、今はすっかり落ち着き、奥田理事長と一緒に、経験を語る講演活動もしている。

抱樸のモットーは「おんなじいのち」属性や条件で人を排除しない。成育歴や疾病などは解決できなくても、トラブルや困り事に家族のように寄り添う。仲間が亡くなったときは、すぐそばの東八幡教会で見送る。看取りまで関わり続けるのだ。

「全国新聞ネットニュース」より

目標を目指してひたすら走る

2020年は、東京オリンピックの年である。アスリートたちがどんな走りをするのか楽しみであるが、神は私たちの信仰生活にも、走ることを求めている。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」Ⅱテモテ4:7-8「決められた道」とは、自分にとって、必ずしも喜ばしい道ではない、できれば逃げたいと思う道かもしれない。しかしそれが「決められた道」であるのなら、私たちは迷ったりしないで、走りとおしたい。

「決められた道を走りとおす」ために何が必要か。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」フィリピ3:13-14。 目標(ゴール)に向かって一目散に走ることである。「ウサギとカメ」の話は、そのことを教えている。カメより遥かに早いウサギは、ゴールを見ないでカメを見て油断し、その結果、カメに追い越された。しかし、カメは足は遅くとも、ウサギの動向には惑わされず、目標だけを見て歩み続けたので、ウサギより速くゴールインできた。競争意識ではなく、共生意識をもって、目標を目指してひたすら走ること」の大切さをここに見る。

但し、目標が目の前に見えないこともある。だからこそ、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」ヘブライ12:1-2という生き方が必要である。「重荷」「罪」「かなぐり捨て」なければ、とても重くて走れない。私たちは、自分の努力で重荷や罪を捨てることはできない。十字架上で私たちの重荷や罪を負ってくださった主を見つめることによって、捨てることができる。「罪」は私たちの信仰生活にも「絡みついて」来るので、「忍耐強く走り抜く」ことが求められている。主は私たちに信仰を与え、その信仰を完成させ、「義の栄冠」を与えてくださる。

私たちは、ペトロのように嵐や荒波の中で、主から目を離して溺れてしまうようなことがあるのではないか。しかし、主だけを見つめて生きることが、困難な中でも前進することができる。主を見つめることは、目標を見つめて前へ進むことである。「イエスを見つめながら」この信仰の姿勢がいつも必要である。「すべての重荷やからみつく罪」「十字架の主イエス」に委ね、主を見つめたい。2020年も「前のものに全身を向けつつ」「イエスを見つめて」信仰生活を最後まで走り続けたいものである。