Month: 10月 2019

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会堂を用いて、様々なことに取り組んでいきたい

「会堂は20年経ったのです」と地域に方に伝えると、「古さを全然感じさせないですね」と言われて嬉しくなった。旧会堂は外壁のペンキが剥げて、古さが目立っていたのに比べ、タイル張りの現会堂は色あせることなく、よい風情を醸し出している。四方から見える十字架の塔は、シンボリックな存在となっている。タクシーの運転手が、行く先を「教会」と聞いただけで、私たちの教会に連れて来られることが多い。「赤信号、十字架見上げて、教会へ」という方が、一人でも多く起こされることを願う。
上尾教会に来られた方からは、「会堂は中は、こんなに広いのですね」と驚かれることが多い。外見から見るよりもはるかに広いと感じるようだ。それは天井の高さに寄るところが大きいが、サイドルームの間仕切りを開くと、ワンルームになるからである。普通、建物には各部屋を仕切る廊下の部分があるが、上尾教会にはない。沢山の方と礼拝を捧げられるように、空間を広く取るために、徹底的に無駄な部分を省いた。もう少し押入れがあればと思えるほど、空間を広く取ることに拘った。その甲斐があってか、結婚式や葬儀式、コンサート等で150名位は対応できる。又、バリアフリーの面で、一階に全ての機能を配置したことがよかった。20年経って、歩行器や杖を使って移動される高齢者が増えてきた。段差や階段が一ヶ所でもあれば、不便である。二階の畳の部屋は、子供の分級やお泊り会に役立っている。
丁度、台風19号の時、牧師家は教会に避難した。昨年の台風の時、牧師館の屋根が飛ばされ、建物が揺れて、不安な一夜を過ごしたからである。教会は、全く揺れることもなく、台風の音も気にならないほどであった。会堂を建てる時に、大震災が起きても教会は最後まで建ち続けるようにと、地下25mの岩盤まで12本の杭を打った。その杭の上に会堂は建っているので、揺れを感じないのである。災害時の自主避難所として、教会員や地域の方にも利用していただける会堂である。
今後、会堂が益々用いられることを願っている。家庭にも社会にも自分の居場所が見つからず、心の拠り所を求めている人は多い。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイ11:28と言われた主は、そのような人々を教会へと招かれている。教会こそ、魂の安らぎの場所である。その魂の安らぎの場所として、一緒に礼拝を捧げ、一緒に祈りを捧げていきたい。又、平日も地域の方々の心の拠り所として、会堂を用いて、様々なことに取り組んでいきたい。

慰めの共同体としての教会

台風19号は日本各地に大きな被害をもたらしたが、上尾も例外ではない。市境にある荒川が海のように氾濫し、河川敷近くにある建物が浸水している様子を目の当たりして、改めて自然災害の恐ろしさを感じた。三井住宅に住む方から、「何かあった時には、上尾教会に避難させてほしい。」という声を伺ったので、「どうぞ、そのような時は、教会をご利用ください。」とお伝えした。この地域の避難所は、大石小学校であるが、ご高齢の方はそこまで避難するもの大変なので、すぐ近くにある私たちの教会に避難したいとのことである。

また、「泉のほとり」で「キリスト教式葬儀」についてご紹介したところ、「教会でも私の葬儀をしていただけるのですか。」と尋ねられたので、「はい、教会はどなたでも利用していただけますが、ご自分の希望を、はっきりと家族の方と教会へ伝えておいてくださることが大切ですね。」とお伝えした。

この地に会堂が建って20年、地域の方々が私たちの教会を頼りにしてくださっていることは嬉しいことである。上尾教会のミッションステートメントにも、「私たちは、神からいただいた恵みを活かして、神と人とに仕えます。」と掲げた。神からいただいた恵みとは、この会堂であり、教会の交わりである。会堂は、礼拝を捧げるためだけにあるのではない。「地域に開かれた教会」として、地域の人々の求めに応えるためにある。それが今、地域の人々の様々な会合に使われていることからもわかる。又、教会の交わりは、福音を聴く交わりではなく、福音に生きる交わりである。

主の慰めにあずかった私たちは、その慰めを自分だけに留めていてはならない。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」Ⅱコリント1:4。悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人に、私たちが慰めの手を差し伸べることができるのは、私たち自身が神から慰めをいただいているからである。

私たちの周りには、慰めを必要をしている人がたくさんいると思う。親子関係、夫婦関係、その他の様々な人間関係で行き詰っている人が、どこに慰めを求めたらよいのかわからずに、独りで悩み、苦しんでいる。主なる神はその人の傍らにいて深い慰めを与えてくださることを、祈りをもって伝えていきたい。教会は、「慰めの共同体」として、神と人々から、ますます期待されているのである。

与えられた命を大切にしたい

「東京バプテスト神学校デー」の時に、奈良教会の松原宏樹牧師の講演を伺い、命について深く考えさせられた。松原先生はNPO「みぎわ」を立ち上げて、家庭で暮らすことのできない子供の特別養子縁組を紹介し、ご自身の家庭でもダウン症と心臓に疾患のある一歳に満たない子供を育てておられる。先生がどうしてそのような思いに至ったのか。それは、日本で一年間に人口中絶数は、厚労省の統計では約20万人であるが、中絶の薬の量を考えると、その三倍の60万人、いや100万人とも言われている。2018年の出生数は91万人であることを考えると、約半数の子供の命が失われていることになる。出生前診断で、お腹の中の子供が障がいがあるかもしれないと診断された妊婦の90%が中絶を望む。その事を知った松原先生は、居ても立ってもいられなくなって、ドクターに「もう殺さないでください。私たちがなんとかしますから。」そう言って、子供の命を救う働きを続けてこられた。

今日、事故や事件で幼い命が失われる度に大きく報道される。どうしてその命が守れなかったのか、誰の責任か、大きく問われる。それほど命は大切なものである。しかし、お腹の中にいる子供に関しては、ただ親が望まなかっというだけで、合法的に殺されている。親の責任が大きく問われることもない。まさに日本は、「中絶大国」である。今日「少子化少子化」と叫ばれているが、実は、子供が生きる権利を奪われ、闇に葬られているのであって、少子化に至る原因がここにあるのではないか。

子供の命を軽く見るような日本の現状を主はどのようにご覧になるのだろうか。きっと憤りと深い悲しみを持っておられるに違いない。主は子供を退けられるどころか、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」マルコ10:14と言われ、「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」のである。そんな豊かな祝福を、主の方から子供たちを抱き上げて、与えてくださったのである。主は子供たちの人生を祝福しようと願っておられるのに、親の都合で妨げてはならない。

松原先生は、「神様はこの子を愛して、この子の人生に意味があるとおっしゃる。これに気づけるのはクリスチャンしかいないと思う。実は、聖書に“いと小さき者の一人にしたのは、わたしにしたのである。”と言われるように、主はそこにおられると、思われてならないのです。この働きを私たちは、これからも続けていきたいのです。」と言われた。誰の命も神の目から見るなら高価で尊いのである。私たちは、与えられた命を大切にしたい。

福音を宣べ伝えるためには

20年前、この会堂を建てた時、『上尾教会が求めてきた教会像』の中で、「私たちの教会の第一の使命は、地域に開かれた教会として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることです。」と宣言した。この宣言を今、深く噛みしめている。上尾教会が主の教会としてこの地域に提供できるものは何か、それは福祉でも教育でもない、主の福音である。主の福音が一人ひとりにどれほど豊かな人生をもたらしてくれるのかを宣べ伝えることである。そのために、特別な集会を企画し、案内のチラシをこの地域に蒔き、ホームページで広く案内してきた。その働きは、今後も続けていきたい。

20年経つと、この地域がどんな所か段々に分かってきた。三井住宅や西上尾第一団地は高齢化が進み、一人暮らしの方が多いこと、また、周辺には新しい住宅が次々と建てられ、若い世代が住んでいること。そのような異なる世代にも主の福音を届けるために、「泉のほとり」では、指圧、がんカフェ・認知症の方と共に生きる、終活、キリスト教式葬儀などのテーマで取り組み、また、子育て世代には、「プレクリスマス」などで、子供と楽しく過ごしてもらう企画が続けられている。

ビジネス界では「費用対効果」という言葉が使われ、かけた費用に対して、どれほどよい結果を得られたかが問われるが、福音宣教の世界は、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」コヘレト11:1。その時は、無駄(徒労)に思えても、何年後・何十年後に実を結ぶということが起こるのである。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」詩編126:5とは、真実である。

主の福音は、ただ言葉だけではなく、人格を通して語られる。三井住宅に建っている上尾教会は、近所の方から良きにつけ悪しきにつけ見られている存在である。近所の方に気持ちよく挨拶をするだけでも、教会に対する好感度は違ってくるだろう。

「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」使徒言行録2:46-47。私たちは近所の方から「好意を寄せられる」存在になっているだろうか、それとも煙たがられる存在になってはいないだろうか。神への賛美は、おのずと隣人への愛に向けられるものである。「地域に開かれた教会として、イエス・キリストの福音を宣べ伝える」ためには、日頃からの私たちの信仰生活が証となっているかが問われている。