Month: 7月 2019

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孤独からの回復  秋山 義也(瑞穂教会牧師)

「孤独」が深まり、「自分はいてもいなくても同じだ」「他者を殺して、自分も死ぬ」という声がカタチとなった悲しい事件が続いています。事件を起こす前に、誰か一人でもいい。「あなたは一人ではない」「あなたに生きて欲しい」という声かけがあったら、どうだっただろうか、とふと思います。

「孤独」について共に学びたい。知的障がい者と健常者との共同生活の家「ラルシュ共同体」創設者であり、カトリック信者ジャン・バニエさんの著書『人間になる』には、「孤独」についてラルシュの家での体験から考察しています。「孤独」は人間皆が生来もっているもの。隠しているに過ぎないもの。独創性や芸術性は、「孤独」であることから生み出される「孤独」の善い面を紹介しています。しかし、ジャンさんが出会ったラルシュの家にたどり着いた障がい者の人たちは皆、孤独がもたらす不安や、恐れ、怒り、失望など、いろいろな傷を抱えていたのです。

「苦しみは、心の動揺、わけの分からない不安です。苦しみは、睡眠その他の生活リズムを乱し、私たちを混乱させます。孤独であるとは、自分が望まれていないとか、愛されていない、したがって愛されるに値しないと感じることです。孤独とは死の予感です。ですから、ひどく孤独な人たちの中には、心の痛みを忘れるために精神病になったり暴力をふるったりする人がいるのも不思議ではありません。」(p.16)「孤独とは、人間として尊重され愛されたい、さらにそれ以上の真理に包まれ、神に抱かれたいという叫び(しばしば、悩める心の痛切な叫び)のことです。そのような叫びから、人類は一層健やかに成長することができるのです。」(p.25)

これらの言葉から、現代の無差別殺人事件の背景が垣間見えてきます。ジャンさんはラルシュの家において、露わになる一人ひとりの孤独の感情や気持ちを丁寧に聞き、感じ、抱きしめ「あなたが必要だよ」、「あなたと生きたい」という思いを伝え、「孤独」の傷が癒される体験を語っています。

ジャン・バニエさんのような働き人の声から今、「孤独」の傷が深まるこの時代で「私」はどう生きるのかを考えたい。そしてキリスト教会に集う、私たちは聖書から聴き、共に学び続けたいと思います。『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』マタイ1:23。「あなたは一人ではない」「共に生きよう」主イエスの語りかけをこの身に受け、孤独からの回復の道を一緒に歩み続けたいのです。

小さな祈りから

30年前、祈祷会での子供たちの祈りはいつも「教会が大きくなるように」であった。子供たちの成長と共に、32坪の敷地に建つ旧会堂は益々狭くなっていき、教会前の道路で遊ぶ子供たちに、「車が来るから危ない」と叫ぶことが多くなった。だから、子供たちが会堂の中で安心して過ごすために、教会が大きくなることは切実な課題であった。子供たちのその祈りに導かれるように、上尾教会では会堂建築を目指そうということになり、現在地117坪を購入し、20年前に会堂を建てることができた。

この大きな御業の背後には、小さな祈りの積み重ねがあった。途中、何度も挫折しかけ、会堂建築は無理かなぁと諦めそうになった私たちを押し出してくれたのは、毎週の祈祷会で「教会が大きくなるように」と疑わずに信じて祈る子供たちの姿であった。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10:15。まさに、子供たちの祈りに導かれて、新会堂に入ることができた。それを思うと、どんな事にも、小さな祈りの積み重ねが大切だと感じる。

丁度、30年前、東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊した。この大きな歴史的出来事の背後にも、小さな祈りの積み重ねがあった。1982年、ライプツィヒのニコライ教会ではクリスチャン・フューラー牧師の提案で、「平和の祈り」という集会を毎週月曜日に行うようになった。最初は少人数であったが、次第に参加者が増え、東ドイツの現状体制に反対する市民運動の拠点となり、1989年9月からは集会後に「月曜デモ」が始まり、10月9日の「平和の祈り」の後、教会周囲に集まったデモ参加者は7万人にまで達した。1ヶ月後の11月9日に「鉄のカーテン」の象徴たるベルリンの壁が崩壊し、分断国家ドイツを1人の犠牲者も出すことなく統一へと導いた。それ故、ニコライ教会は「東西ドイツ統一革命の出発点」と言われ、東西ドイツ統一のきっかけとなった「平和の祈り」は、現在も絶えることなく受け継がれている。

今日、人が集まらないから、祈祷会を止めようという教会があることを聞く。また、祈っても叶えられそうにないから、と祈祷会に参加することを諦める人がいる。しかし、小さな祈りの積み重ねが大きな奇跡を生む。預言者サムエルは、「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」サムエル記上12:23と、祈らないことは罪であるとさえ語った。神は、私たちの祈りを通して、御業を進めようとしておられる。小さな祈りを積み重ねようではないか。

「内なる人」は日々新たにされていく

辛い時、苦しい時、ユーモアが明るさをもたらすことをホスピス医の柏木哲夫先生が語っていた。柏木先生が回診の時、患者さんに「体調はいかがですか」と尋ねたところ、「先生、順調に衰えています」と応えられたのを聞いて、その場が急に和らいだとのこと。この患者さんが、日に日に衰えていくことを拒絶するのでなく、「順調」という言葉で表したように、受容していくことが、実は私たちにも求められているのではないか。誰しも遅かれ早かれ「順調」に衰えていくからである。年を取っていくと、体力も気力も能力も衰えていく。目が見えにくくなり、耳が聞こえにくくなり、体の自由がきかなくなる。また調子の悪いところが出てくる。時には大変重い病気を患う。そして体が弱ると共に、これから先の生活が不安になり、心細さを感じていく。

しかし、パウロはユーモアをもって希望を語る。“たとえ、わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。”Ⅱコリント4:18。この「内なる人」とは、キリストによってもたらされた永遠の命によって、日々新たに」リフレッシュされ、充実し、喜びに満たされていく人のことである。私たちの体は確かに日々衰えていくが、主が心を日々新しくしてくださるので、“だから、わたしたちは落胆しません。”同4:18と言い切って、生活を始めることができるのである。

鈴木正久牧師は、癌を患い、56歳で召される直前、「自分は今、死に向かっているのではない、キリスト・イエスの日に向かっているのだ。」と言われ、それを録音テープにこう残された。「使徒パウロは、自分自身の肉体の死を前にしながら、喜びに溢れて、フィリピの信徒に語りかけているのです。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。そうではなくて、それを越えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。それが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです。そのことが、今まで頭の中で分かっていたはずなんですけれども、何か全く新しいことのように分かってきました。聖書というものがこんなに命に溢れた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じたくらいに今感じています。」

私たちは「死に向かっている」と思う時、希望を失う。しかし、キリスト・イエスの日に向かっている」と確信する時、衰えることにも感謝でき、御国で主にお会いできるという新たな希望が与えられる。私たちは自分の力では日々新たになることはできないが、主を信じて生きる時、日々新たにされていくのである。なんと幸いなことか。

どこに安心プランがあるのか

「 公的年金だけでは十分ではない、老後30年間で2000万円の貯金が必要になる」と指摘した金融庁審議会の報告書が不安を煽っている。否、2000万円でも足りないという意見まで飛び交う。政府が「年金100年安心プラン」と唱えてきたことが、嘘だったのかと憤りを感じる。では、貯金が幾らあれば安心なのか、これについて考える時、トルストイの書いた『人にはどれだけの土地がいるか』という物語を思い出した。

主人公であるパホームは、貧しい農夫だったが段々と成功していく。そして、最後には広大な土地を非常に安い値段で買えるという話を聞き、遠路はるばるその地にやって来た。但し、それは夜明けから日没までに、スタート地点に戻って来なければ、土地を得ることはできず、金も没収されてしまう。パホームは、死に物狂いで走り続け、スタート地点にやっと辿り着いた。しかし、彼はそこで倒れ、息絶えた。彼はそこで2m四方の土地に埋められ、人生を終えた。お墓を掘った人は言った。「人にはどれだけの土地が必要なんだろうか」結局のところ、本当に必要だった土地は広い土地ではなくて、自分のお墓にする小さな土地だった、という話である。

主人公のパホームは、命に目を向けていなかった。土地という財産にだけ目を向けていた。だから命に必要ないような広い土地まで欲しがった。最初は土地を持たずに人の土地で働くことに満足していたのに。貪欲の結果はそのように愚かな結末に至る。命に目を向けていない時には、人は必要のないものまで欲しがる。しかし、命に必要のないものまで欲しがるということは、誰にでも当てはまるのではないか。

だから主は言われた。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」ルカ12:15-20。人の命は、その人が持っているものによって決定されるのではない。私たちの命は、神の主権の下にある。だとしたら、私たちの目指すべきことは、「神の前に豊かになる」12:21ことである。 これは、神との関係を豊かにすることである。老後のために貯金すること自体は悪いことではない。ただ神との関係が豊かにならなければ、「愚かな金持ち」のように、幾ら貯金を蓄えても、不安に怯えながら生きることになる。私たちがそうならないように、平安に生きていくことができるように、主は私たちの下に来てくださった。たとえ、今夜、私たちの命が取り去られても、神の前に豊かに生きようではないか。