Year: 2019

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小さな祈りから

30年前、祈祷会での子供たちの祈りはいつも「教会が大きくなるように」であった。子供たちの成長と共に、32坪の敷地に建つ旧会堂は益々狭くなっていき、教会前の道路で遊ぶ子供たちに、「車が来るから危ない」と叫ぶことが多くなった。だから、子供たちが会堂の中で安心して過ごすために、教会が大きくなることは切実な課題であった。子供たちのその祈りに導かれるように、上尾教会では会堂建築を目指そうということになり、現在地117坪を購入し、20年前に会堂を建てることができた。

この大きな御業の背後には、小さな祈りの積み重ねがあった。途中、何度も挫折しかけ、会堂建築は無理かなぁと諦めそうになった私たちを押し出してくれたのは、毎週の祈祷会で「教会が大きくなるように」と疑わずに信じて祈る子供たちの姿であった。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10:15。まさに、子供たちの祈りに導かれて、新会堂に入ることができた。それを思うと、どんな事にも、小さな祈りの積み重ねが大切だと感じる。

丁度、30年前、東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊した。この大きな歴史的出来事の背後にも、小さな祈りの積み重ねがあった。1982年、ライプツィヒのニコライ教会ではクリスチャン・フューラー牧師の提案で、「平和の祈り」という集会を毎週月曜日に行うようになった。最初は少人数であったが、次第に参加者が増え、東ドイツの現状体制に反対する市民運動の拠点となり、1989年9月からは集会後に「月曜デモ」が始まり、10月9日の「平和の祈り」の後、教会周囲に集まったデモ参加者は7万人にまで達した。1ヶ月後の11月9日に「鉄のカーテン」の象徴たるベルリンの壁が崩壊し、分断国家ドイツを1人の犠牲者も出すことなく統一へと導いた。それ故、ニコライ教会は「東西ドイツ統一革命の出発点」と言われ、東西ドイツ統一のきっかけとなった「平和の祈り」は、現在も絶えることなく受け継がれている。

今日、人が集まらないから、祈祷会を止めようという教会があることを聞く。また、祈っても叶えられそうにないから、と祈祷会に参加することを諦める人がいる。しかし、小さな祈りの積み重ねが大きな奇跡を生む。預言者サムエルは、「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」サムエル記上12:23と、祈らないことは罪であるとさえ語った。神は、私たちの祈りを通して、御業を進めようとしておられる。小さな祈りを積み重ねようではないか。

「内なる人」は日々新たにされていく

辛い時、苦しい時、ユーモアが明るさをもたらすことをホスピス医の柏木哲夫先生が語っていた。柏木先生が回診の時、患者さんに「体調はいかがですか」と尋ねたところ、「先生、順調に衰えています」と応えられたのを聞いて、その場が急に和らいだとのこと。この患者さんが、日に日に衰えていくことを拒絶するのでなく、「順調」という言葉で表したように、受容していくことが、実は私たちにも求められているのではないか。誰しも遅かれ早かれ「順調」に衰えていくからである。年を取っていくと、体力も気力も能力も衰えていく。目が見えにくくなり、耳が聞こえにくくなり、体の自由がきかなくなる。また調子の悪いところが出てくる。時には大変重い病気を患う。そして体が弱ると共に、これから先の生活が不安になり、心細さを感じていく。

しかし、パウロはユーモアをもって希望を語る。“たとえ、わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。”Ⅱコリント4:18。この「内なる人」とは、キリストによってもたらされた永遠の命によって、日々新たに」リフレッシュされ、充実し、喜びに満たされていく人のことである。私たちの体は確かに日々衰えていくが、主が心を日々新しくしてくださるので、“だから、わたしたちは落胆しません。”同4:18と言い切って、生活を始めることができるのである。

鈴木正久牧師は、癌を患い、56歳で召される直前、「自分は今、死に向かっているのではない、キリスト・イエスの日に向かっているのだ。」と言われ、それを録音テープにこう残された。「使徒パウロは、自分自身の肉体の死を前にしながら、喜びに溢れて、フィリピの信徒に語りかけているのです。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。そうではなくて、それを越えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。それが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです。そのことが、今まで頭の中で分かっていたはずなんですけれども、何か全く新しいことのように分かってきました。聖書というものがこんなに命に溢れた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じたくらいに今感じています。」

私たちは「死に向かっている」と思う時、希望を失う。しかし、キリスト・イエスの日に向かっている」と確信する時、衰えることにも感謝でき、御国で主にお会いできるという新たな希望が与えられる。私たちは自分の力では日々新たになることはできないが、主を信じて生きる時、日々新たにされていくのである。なんと幸いなことか。

どこに安心プランがあるのか

「 公的年金だけでは十分ではない、老後30年間で2000万円の貯金が必要になる」と指摘した金融庁審議会の報告書が不安を煽っている。否、2000万円でも足りないという意見まで飛び交う。政府が「年金100年安心プラン」と唱えてきたことが、嘘だったのかと憤りを感じる。では、貯金が幾らあれば安心なのか、これについて考える時、トルストイの書いた『人にはどれだけの土地がいるか』という物語を思い出した。

主人公であるパホームは、貧しい農夫だったが段々と成功していく。そして、最後には広大な土地を非常に安い値段で買えるという話を聞き、遠路はるばるその地にやって来た。但し、それは夜明けから日没までに、スタート地点に戻って来なければ、土地を得ることはできず、金も没収されてしまう。パホームは、死に物狂いで走り続け、スタート地点にやっと辿り着いた。しかし、彼はそこで倒れ、息絶えた。彼はそこで2m四方の土地に埋められ、人生を終えた。お墓を掘った人は言った。「人にはどれだけの土地が必要なんだろうか」結局のところ、本当に必要だった土地は広い土地ではなくて、自分のお墓にする小さな土地だった、という話である。

主人公のパホームは、命に目を向けていなかった。土地という財産にだけ目を向けていた。だから命に必要ないような広い土地まで欲しがった。最初は土地を持たずに人の土地で働くことに満足していたのに。貪欲の結果はそのように愚かな結末に至る。命に目を向けていない時には、人は必要のないものまで欲しがる。しかし、命に必要のないものまで欲しがるということは、誰にでも当てはまるのではないか。

だから主は言われた。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」ルカ12:15-20。人の命は、その人が持っているものによって決定されるのではない。私たちの命は、神の主権の下にある。だとしたら、私たちの目指すべきことは、「神の前に豊かになる」12:21ことである。 これは、神との関係を豊かにすることである。老後のために貯金すること自体は悪いことではない。ただ神との関係が豊かにならなければ、「愚かな金持ち」のように、幾ら貯金を蓄えても、不安に怯えながら生きることになる。私たちがそうならないように、平安に生きていくことができるように、主は私たちの下に来てくださった。たとえ、今夜、私たちの命が取り去られても、神の前に豊かに生きようではないか。

私たちの心の中にある部落差別

「部落」とは、単に地方の村や町、集落のことを指す呼称ではなく、東北から九州に至るまで全国各地において、都市、町、農村、漁村を問わず、ある特定の差別意識によって差別された集落のことを言う。部落差別の起源は16世紀末からの封建的身分制度によるものであると言われているが、江戸時代における士農工商による差別によって制度として確立した。その頃、部落の人々は、士農工商の下に位置する「えた、非人」という差別的蔑称で呼ばれ、と場で牛や豚の肉を作り出す仕事などをした。

連盟では「部落問題特別委員会」を1981年から立ち上げ、「被差別者の立場に終始立ち切られたイエスを主と仰ぐ私たちキリスト者にとって、部落差別への無関心を差別への加担・罪としてとらえ、この課題への深い関わりを持つことが主のみ旨であり、差別問題解決のため、その戦いの先頭に立つことが福音の証しである」とする基本理念の下で、部落差別問題に取り組んできた。それは教会の中においても部落差別の問題があり、差別の問題は信仰の問題でもある。被差別部落出身者と主の晩餐の杯を一緒にしたくないと拒否することや、「部落と呼ばれてガラが悪い人が来ると教会が混乱するので、その地域には教会案内を配らなくてもよい」などの差別を公然と行ったこともあった。

この部落差別で深刻なのは結婚や就職の時に起こることである。結婚では差別によって自死した人もいた。就職も身元調査をして被差別部落出身だと分かると採用しない会社がある。「部落出身だということを死ぬまで誰にも言ってはいけない」と親は子供に教えなくてはならないほど辛いことはない。部落差別は明らかに人権侵害である。部落差別は、自然になくなると思っている間はなくならない。部落差別についての無理解は、差別された側にとって命に関わるほどのことであるのに、差別する側は自分の加害の結果について、相手の痛みについて、殆どわからない点にある。

このような差別に対して私たちはどう対処したらよいのか。主は当時、差別され排除されていた罪人・徴税人などと一緒に食事をし、病人・障がい者を癒し、共に歩み共に生きられた。主は偏見と差別をなくそうとされた。そして、差別の根源である罪を担い、その罪から解放された道を開かれた。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」ガラテヤ3:26。この世の人はすべて罪赦された神の子である。私たちはすべての人を尊重しながら生きる者とされた。私たちの心の中にある部落差別に気づくためにも、部落差別の実態を学んでいきたい。

教会屋根防水シート 張り替え

上尾教会の会堂が建ってそろそろ20年になります。ご多聞に漏れず、上尾教会もあちこちの補修が必要になってきました(^◇^;)

 

今回は建物屋上の防水シートの張り替えです。雨水が溜まらないように、水がしみ込んでコンクリートを侵食しないように、また、夏は太陽光を反射して建物内の温度を少しでも和らげるように、施工業者さんが最新のシートを職人技でビシーっと貼って下さいました。

 

施工中、特別に‼︎   屋上へ登らせていただきましたよ〜〜(≧∇≦)

 

上尾教会のシンボル、十字架を支えている土台の補修、ペンキ塗りも‼️

こんな光景、なかなか見られるものではありませんからね!

スリリングでエキサイティングなひとときでした(๑>◡<๑)!

 

 

春の特別伝道集合 〜PEZ編〜

5月26日は上尾キリスト教会の春の特別伝道集会でした🍀⛪️🍀

 

特別集会なので、講師の先生も特別に仙台からお招きしました( ^ω^ )!

仙台長命ヶ丘キリスト教会牧師  金丸真先生

 

先生のお話は冒頭から何やら出てくる!出てくる‼︎

会堂の大人も子どもも「ん??」と呆気に取られる中、先生はお構いなしに「次はどれにしようかな〜」と楽しそう( ̄▽ ̄)

講壇の前にズラリと登場したのは…

そうです。PEZ(ペッツ)の入れ物!何を隠そう金丸先生はPEZのコレクター✨❗️✨

このPEZ達が入っていた袋ももちろんPEZ!

ミ◯オンズのキャラクターPEZ達を、今日は聖書物語の登場人物に当てはめて先生のメッセージは始まり始まりー!

いつのまにかみんな先生のお話しに聞き入っていました。

 

午後からは、2011年東日本大震災のボランティアに奔走し、7年間経ってなお終わっていない被災地の現実に寄り添い続けておられる先生の活動を伺いました。

 

今や、私たちはマスメディアを通して、世界のいろんな情報を得ることができます。インターネットの普及でその情報量はさらに計り知れないほど多くなりました。日々、情報は更新され続け、世の中は新しい話題で溢れています。

しかし…

目に、耳にしなくなったからといって、問題が解決したわけでも、終わったわけでもないものが山ほどあること、辛さや哀しみが置き去りにされている現実があることを、忘れないでいる者でありたいと思うのです。

想像の翼をいっぱいに広げて。。