Month: 12月 2018

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災いの中にこそ、神の恵みがある

2018年を表す漢字は、「災」であった。6月大阪府北部地震、7月西日本豪雨、災害酷暑、9月北海道胆振東部地震、台風21号、24号直撃、と全国各地で災害が相次ぎ、大きな被害をもたらした。上尾教会の牧師館も台風24号で屋根のトタンが飛ばされ、隣の家のガレージを破損させ、大変な迷惑をかけた。ただ人的な被害がなかったことは不幸中の幸いであった。災害は、起こらないにこしたことはないが、「災い転じて福となす」という諺があるように、厄介ごと一転して幸福の種に転じることもある。ご近所の方から、「大変でしたね。気になさらないでください。私たちも何かあった時は、建物が頑丈な教会に避難させて頂きたいと思います。」とか、「どうぞ、家の車庫が空いていますので、教会で使ってください。」と言われて、ご近所のありがたみをひしひしと感じている。2011年3月の東日本大震災以後、三井住宅では防災部が発足し、秋山純子さんが部員として当初から関わり、教会も会合に使用されてきたので、今回の被害で、慰めの言葉をかけて頂いたことは嬉しかった。

「災」は、自然災害に限らず、病気や交通事故などで辛い思いをし、入院や手術を余儀なくされた方もおられるだろう。しかし、その中で聖書の言葉に励まされ、信仰の恵みの豊かさを経験された方がおられるのではないか。パウロは、一つのとげ(病)が取り去られるように、一日中祈った。その結果、病が取り去られたかというとそうではなかった。病という災いの中で、神の恵みがどれほど大きいかを悟ったのである。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」Ⅱコリント12:9。主の恵みに与ったからこそ、病は忌むべきものではなく、むしろ誇るもの、幸いなものになったのである。

私たちの人生には、「これさえなければ、どれほど幸せになれただろう」と思うことが

あるかもしれない。しかし、主を信じる時、災いと思えることがあったとしても、「私はそれでも幸せです」と告白できるのである。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。・・いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方(主)のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピ4:11-13と、パウロが告白したように、いついかなる場合にも主の力により頼んで、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたい。」災いの中にこそ、神の恵みがある。

 

主イエスこそ、共にいてくださる神

時折「神がいるなら、見せてくれ」と言われる人がいる。神がいるならば、世の中の戦争や迫害や貧困はどうして起こるのか。神は、毎日世界中に何万と死んで行く幼子を愛していないのか。このような問いは、古くからキリスト教に向けられてきた。私たちは、神の愛をこの世の現実の中に見いだそうとする。それに対して聖書は、神の愛は人間の目には隠されているが、信仰の目を持って見るなら、神の愛は見ることができると語る。クリスマスの出来事は、私たちをそういう信仰へと招くのである。

クリスマスの出来事の大事な言葉は「見る」ということである。御使いが羊飼いたちに現れて「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と語り、羊飼いは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合う。シメオンは幼子を抱いて、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言う。無限の霊である神を、人間は肉眼をもって見ることは出来ない。しかし、主イエスを見るならば、「あなたは神を見た」と言える。

主イエスの素晴らしさは、神ご自身を見せてくれたことである。文字通り「見える神」となられた。この主イエスにおいて見る神の姿は、私たちに寄り添ってくださる神である。主イエスは私たちと同じように、人間として歩まれた。空腹を覚え、悲しみや嘆きも体験された。涙を流し、怒ることもあった。憐みに心を動かされた。人となられた神は、私たちの傍らにいる神となってくださった。主イエスは、「神は我々と共におられる」という意味で、「インマヌエル」と呼ばれたのである。

ある聖書学者は、「クリスマスは、神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だ。丁度、母親が火事で火を浴びている子どもの上に身を投げ出すように、大波に襲われた子のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ。」と語る。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。主イエスこそ、私たちを愛して、私たちのために身を投げ出して救う神となってくださった。孤独を味わう時、病む時、辛さと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、主イエスは私たちの傍らに共にいてくださる神である。主イエスは私たちに寄り添いながら、父なる神との交わりの中に導き入れてくださる。父なる神と御子との深い愛の交わりの中に、あなたも招かれている。今日のクリスマスの良き日に、主イエスを救い主と信じて、その深い愛の交わりの中に生きようではないか。

 

賢者の贈り物

クリスマス・プレゼントを何にしようかと皆さんは思い巡らすことはないか。そんな時、私はO・ヘンリーという人が書いた『賢者の贈り物』という小説を思い出す。貧しい夫婦のジムとデラは互いに相手にクリスマス・プレゼントを贈ろうと考えた。妻のデラは、夫のジムが持っている懐中時計用にぴったりの鎖を贈ろうと願い、そのお金を工面するために、自慢の美しく長くて立派なブロンドの髪の毛をばっさりと切り落として売った。一方、夫のジムはデラの自慢の髪の毛にぴったりのべっこうの櫛を買うために、懐中時計を売った。その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然としたのである。デラの髪の毛をとかすための櫛も、懐中時計のための鎖も、今や両方とも、役に立たなくなったのである。

なんとも愚かな贈り物である。私ならショックで寝込んでしまうだろう。しかし、O・ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「一番大切な宝物を、最も賢くない方法で、お互いに犠牲にした、愚かな人たちだ」と言い、その「愚かな人たちこそが最も賢い人であり、最も愚かな贈り物こそが、最も尊いのだ」と言う。これこそが、クリスマスに最も相応しい贈り物である。なぜか。それは、父なる神が最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げてくださったからである。

神は、ご自身に背き、その御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を与えてくださった。しかも、そこまでされたからと言って、人間が神に立ち帰るという保証は何もない。もしかしたら、主がこの世に生まれ、十字架に死んでくださったことが、全く無駄になってしまうかもしれない。それなのに、最愛の独り子をこの世に与えるというその愚かな行為を、神は敢えてしてくださった。

なぜそこまでされたのか。それほどまでに、私たちを愛してくださったからである。それは神のこの「限りなく尊い愚かさ」によって、私たちは罪と死の滅びから救われ、永遠の命が与えられたのである。クリスマスは、独り子を与えてくださった神の恵みに、どう応えていくかを私たちに問い掛けている。私たちは、主の生涯のすべてが限りなく愚かで尊い、十字架の死に向っての歩みであったことを、今一度覚え、それぞれの遣わされた場にあって、神への感謝と献身の思いを表していきたい。周りの人からすれば、神のために献げる時間や労力や献金は、愚かで無駄なことに見えるかもしれないが、聖書はこれこそ「賢者の贈り物」であると告げているのである。

 

 

 

 

 

さあ、ベツレヘムへ行こう!

子どもが生まれた時,誰に一番最初に伝えたいか。きっと大事な人に伝えたいと思う。主イエスがお生まれになった時、一番最初に伝えられた大事な人とは、羊飼いたちであった。羊飼いという職業は、当時の社会の最も底辺、一番下に位置する職業であったと言われている。誰もやりたがらない仕事である。しかし、その仕事に従事しなければならなかった。毎日家畜を自ら飼っているようでありながら、振り回されて逆に、家畜に飼われているような毎日を送っていたのかもしれない。

その羊飼いたちに、天使は告げた。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ルカ2:10-11。自分の存在意義を見出すことができず、暗闇で横たわるしかなかったような者に、この喜びを一番最初に伝えたかったのである。

この喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、どうしたか。「『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」ルカ2:15。天使は、この羊飼いたちに、「さあ、ベツレヘムに行きなさい」と命じたのではない。「ベツレヘムに行けば、救い主のお生まれになる、そのしるしを見ることができるであろう。」そのことを告げただけなのである。それにもかかわらず、彼らの心は、救い主を見ようとの熱望が燃え上がってきた。「虚しいと思えるようなこの生活を、変えて頂くことのできるお方がお生まれになった。」そう思ったら、いてもたってもいられなくなったのである。

現代のベツレヘムは、どこにあるのか。主はどこにおられるのか。現代のベツレヘム、それは教会である。羊飼いたちは、「さあ、教会へ行こう」と叫んだといってもよい。仕事が一段落してから向かったのではない。仕事の最中に立ち上がった。朝になってから向かったのではない。夜の内に出かけた。「時間ができたら、問題が解決したら、教会に行きたい」という方がおられるが、羊飼いはそうしなかった。自分を救う主が来てくださった。そのお方を見たかった。ここに仕事に勝るものがある。疲れや睡眠に勝るものがある。「主が知らせてくださったその出来事を見」たかったのである。

私たちは今日、クリスマスの出来事を見るために礼拝を捧げている。主の誕生は、私たちが日々体験している罪と悲惨の現実のただ中で起った。クリスマスの出来事は、私たちにとって、「主が知らせてくださった大きな喜びの出来事」である。私たちは、神をあがめ、賛美しながら、それぞれの生活へと、喜びをもって帰っていきたい。

上尾シティマラソンとチューリップ🌷

子ども祝福式のあった11月18日、上尾市でも大きなイベントがありました!それは…

上尾シティマラソン🏃🏻‍♂️🐢🐎🏃‍♀️🐥🐕❗️

交差点の一角にある我が上尾キリスト教会は、がっつりマラソンコースに入っているので、この日ばかりは通行止めになる8:30までに教会へ到着しないとエライことになってしまいます😂😂

 

気持ちの良い秋晴れの朝、ランナーの皆さんも気持ち良さそうに走っていました。ガンバレ〜\( ˆoˆ )/

 

マラソン応援の歓声をBGMに、幼少科のみんなで教会玄関の花壇にチューリップの球根を植えました🌷

来年の春が待ち遠しいね(*^^*)❤️

 

🎵  球根の中には🎵 (賛美歌21  575番)

球根の中には 花が秘められ、
さなぎの中から いのちはばたく。
寒い冬の中 春はめざめる。
その日、その時をただ神が知る。

沈黙はやがて 歌に変えられ、
深い闇の中 夜明け近づく。
過ぎ去った時が 未来を拓く。
その日、その時をただ神が知る。

いのちの終わりは いのちの始め。
おそれは信仰に、死は復活に、
ついに変えられる 永遠の朝。
その日、その時をただ神が知る。

 

 

子ども祝福式❣️

11月18日、上尾キリスト教会では「子ども祝福式」が行われました(^^)

いわゆる七五三のようなコンセプトではありますが、0〜12歳の子どもたち全員を対象に、牧師より神様の祝福をお祈りしていただきます👦👧👶

今回 祝福式初参加のbabyも❣️

 

他にも、礼拝の中に子ども向けのプログラムがあったり、何よりのお楽しみは毎年恒例のお菓子のレイ🎀🍪🍫🍬🎀

  

 

みんな元気に大きくなぁれ!

 

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」

ルカの福音書18章16節 (新改訳聖書)