私たちの心の中にある部落差別

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「部落」とは、単に地方の村や町、集落のことを指す呼称ではなく、東北から九州に至るまで全国各地において、都市、町、農村、漁村を問わず、ある特定の差別意識によって差別された集落のことを言う。部落差別の起源は16世紀末からの封建的身分制度によるものであると言われているが、江戸時代における士農工商による差別によって制度として確立した。その頃、部落の人々は、士農工商の下に位置する「えた、非人」という差別的蔑称で呼ばれ、と場で牛や豚の肉を作り出す仕事などをした。

連盟では「部落問題特別委員会」を1981年から立ち上げ、「被差別者の立場に終始立ち切られたイエスを主と仰ぐ私たちキリスト者にとって、部落差別への無関心を差別への加担・罪としてとらえ、この課題への深い関わりを持つことが主のみ旨であり、差別問題解決のため、その戦いの先頭に立つことが福音の証しである」とする基本理念の下で、部落差別問題に取り組んできた。それは教会の中においても部落差別の問題があり、差別の問題は信仰の問題でもある。被差別部落出身者と主の晩餐の杯を一緒にしたくないと拒否することや、「部落と呼ばれてガラが悪い人が来ると教会が混乱するので、その地域には教会案内を配らなくてもよい」などの差別を公然と行ったこともあった。

この部落差別で深刻なのは結婚や就職の時に起こることである。結婚では差別によって自死した人もいた。就職も身元調査をして被差別部落出身だと分かると採用しない会社がある。「部落出身だということを死ぬまで誰にも言ってはいけない」と親は子供に教えなくてはならないほど辛いことはない。部落差別は明らかに人権侵害である。部落差別は、自然になくなると思っている間はなくならない。部落差別についての無理解は、差別された側にとって命に関わるほどのことであるのに、差別する側は自分の加害の結果について、相手の痛みについて、殆どわからない点にある。

このような差別に対して私たちはどう対処したらよいのか。主は当時、差別され排除されていた罪人・徴税人などと一緒に食事をし、病人・障がい者を癒し、共に歩み共に生きられた。主は偏見と差別をなくそうとされた。そして、差別の根源である罪を担い、その罪から解放された道を開かれた。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」ガラテヤ3:26。この世の人はすべて罪赦された神の子である。私たちはすべての人を尊重しながら生きる者とされた。私たちの心の中にある部落差別に気づくためにも、部落差別の実態を学んでいきたい。