祈りの家としての教会

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私たちのバプテスト教会では、話し合いによる合意形成を大切にしてきた。主の業を進めるためには、よりよい方法であると考えるからである。しかし、それにもまして大切なことは、祈り合うことではないか。使徒言行録には、弟子たちが、一心に祈り合う時に、聖霊が働いて大きな主の御業がなし遂げられたことがわかる。

ペトロが救い出された時もそうである。ペトロが捕えられて牢に入れられた時、教会では救出のために話し合ったのではない。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」使徒言行録12:5。絶体絶命の状態の中で、最後の最後まで諦めずに祈ったのである。そしてその祈りが聞かれ、ペトロは救い出されたのである。

今日捕えられて牢に入れられているのは、ペトロだけではない。主をいまだ信じることのできない人は、サタンに捕えられ、罪の裁きの牢に入れられている。そこから救い出すために、教会では伝道懇談会を開いたりするが、今すぐできる確かな方法は、祈り合うことである。祈祷会では、具体的に「○○さんが救われますように」と、リクエストを出し、祈り合っている。その成果を見せて頂いたのが、先週バプテスマを受けられた岡田愛子姉である。お母さんの吉田ハマ姉が30年前「愛子が救われますように」と祈り始めた祈りが私たちにも引き継がれ、実を結んだのである。

弟子たちはペトロが救出されるようにと祈ってはいたが、そう信じていなかった。彼らは、自分たちの祈りが答えられるという確信がないまま、疑いながら祈っていたが、にもかかわらず神は、彼らの願うところをはるかに越えて叶えてくださった。確信も持てないような弱い者であっても、祈り続けていくのなら、主は祈りに応えてくださる。とは言っても、確信がないままで祈り続けていくことはそんなに優しいことではない。そこで、一緒に祈り合うことが必要なのである。自分が家族の救いのために祈れなくなっても、誰かが自分の家族のために祈ってくれるからである。

「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」ルカ19:46。教会は祈りの家として、存在している。私たちの家庭や社会や教会に問題があるなら、祈りに導かれている時であると受け止め、感謝したい。そして、その問題が解決できるという確かな確信がなくても、祈り続けていく中で主が働いて御業を成してくださると信じ、祈り続けていく者でありたい。その答えの意味が今はわからなくとも、あとで分かるようになる。