真の「終活」とは何か

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「葬儀の事前準備なんて、縁起でもない!」は、一昔前の話。最近では「終活」が大流行である。人生の最期に、誰にでも訪れる死に備えるもので、遺産や身の回りのことを整理をしたり、葬儀やお墓のことを決めたりと、自分の希望を元気な時に周りの人に伝えておくことは、大切なことである。しかし、ただ葬儀の準備ができたから、お墓を建てたから、それで死に対する備えができたかと言うと、そうではない。

真の「終活」とは、死んだ後、一体人間はどうなるのかを知って備えることである。多くの人がこの問題を知ることなく、死んでいく。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」ヘブライ9:27と記されている。前半の「一度死ぬこと」は誰でも受け入れるが、後半のその後に裁きを受けることが定まっているは、殆どの人は受け入れてはいない。私達は死んだ後、神の前に立ち、その審判を受けなければならない。ですから、「お前は自分の神と出会う備えをせよ」アモス4:12と警告している。私達は神の法廷で、被告として裁判官である神の前に出なければならない。その時に私達は神の前に罪がないと言えず、自分の力で自分の罪の清算をすることはできない。よって、神から有罪判決を受け、永遠の滅びを宣告される。

それではどうしたら、私達の罪は清算されるのか?聖書はこの問題に対して喜ばしい知らせを伝えている。私達に代わって罪の清算をして下さった方がいる。その方こそ、主イエス・キリストである。主は、私達の罪を負って十字架にかかり、身代わりとして神の裁きを一身に受けられ、三日目に墓を打ち破って復活された。主は、十字架で「完了した」と叫ばれた。つまり罪の清算が完了したという意味である。私達がなすべき責任は、この主イエスを私の救い主として、受け入れることである。

死は、死に対する強い恐れを生み出す。また愛する親しい者が亡くなった時に、残された者に大きな心の悲しみや癒しがたい喪失感を生み出す。しかし、イエス・キリストを信じる者にとっては、死は地上の生涯を終えて天国に至る通過点にすぎない。死を通して、もっとすばらしい世界が開かれている。パスカルは「私達の死に対する不安は、自分達の死を他人の死と比べるところから始まる。しかし、イエス・キリストの死を思い起こす時、死の不安は消え、新しい希望が与えられるのである」と言った。キリストの死によって、死は勝利に飲み込まれた。主の御許に召された信仰の先達者に倣って、死を超えた希望を持つことが、地上の生涯を勇敢に生き抜く秘訣である。