病気であっても、病人ではない

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今年の夏は、厳しい暑さが続き、健康な人でも身に応えるので、病を患っている人には、どれほど辛い毎日であろう。室内でも熱中症になるので、こまめに水分を取り、無理な運動は避け、エアコンや扇風機で気温や湿度の上昇を抑えることが大事である。朝起きた時と寝る前に、一杯の水を飲むだけでも脱水症状を防ぎ、心筋梗塞や脳梗塞を防ぐことができると言われているので、是非、試みていただきたい。

私たちは、「主の祈り」の中で、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と絶えず祈りを捧げていても、病を患い、死に至ることもある。キリスト教は、「ご利益宗教」ではない。「神様、私の病気を治してください。家族の病気を治してください。」と祈っても、祈りが叶わぬこともある。主を信じ、主に祈るなら病気が治るとは、聖書には書かれていない。信仰とは、病気を治すものではなく、病気がもたらす痛みや苦しみに耐える力、即ち「忍耐力」「希望」を養わせるものである。「忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」ローマ5:4-5。「聖霊」とは、「助け主」のことで、主が十字架に掛られて昇天する時に私たちに与えられたのである。つまり、神の愛とは私たちが苦しい時、忍耐と希望を持つことができるようにと、「助け主」として与えられたのである。私たちは、病が治るように必死で祈るが、もし病が治らなくても、それを神の御心として受け入れ、その病に耐える力と復活の希望を与えてくださいと、祈ることができることは感謝である。

10月の「泉のほとり」にお招きする樋野興夫医師は、これまで千組以上のがん患者や家族と対話してきた経験から、「病気は誰でも起る。病気であっても、病人ではない社会を作る必要がある。病人は自分が病人だと思うから病人になる。」と含蓄ある言葉を語っておられた。自分も相手も病人扱いしない、むしろ、病気であっても、本人にできることがあることに気づくことが大切である。丁度、先週施設に入っておられる方を訪問した。最初はご自分の体の痛みを訴えておられたが、教会に来られる方々の現況をお話しすると、「私よりももっと重い症状なんですね。お祈りしなければ…」と言われ、「何だか、自分の体の痛みも忘れました。」と帰る頃には言われた。病人にならないためには、訪問して対話することの大切さを感じた。そして、神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。」という言葉を見出すことができた。