伝道の実を結ぶために何が必要か

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本日の伝道懇談会では、子供を捉えるにはどうしたらよいか、又、泉のほとりをどのように続けていったらよいかを話し合い、具体的な方策を見い出していきたいと願っている。特別なイベントをすると子供たちは来るが、日頃の分級や礼拝には結びつかない。「私たちは、神の栄光をたたえて、子供も大人も一緒に礼拝を献げます」をミッションステートメントとして掲げる上尾教会は、子供も礼拝に与ることによって、信仰が養われ、バプテスマへと導かれてきた。ユースのメンバーが良い例である。

「日本における宣教の現状」と題しての石田学(小山教会牧師)の下記の指摘は、上尾教会にも当てはまるところがあるのではないか。「教勢が伸びず、高齢化が進み、教会の未来に明るさが見えてこない。今はまだ何とか持ちこたえることができているとしても、10年後、20年後はどうなっているかわからない。伝道に力を注ぎ、色々なイベントや集会を催しても新しい人の来訪は少なく、来ても定着しない。洗礼までこぎ着けても半年から数年で来なくなってしまう。誰もが問題を実感しているが、それに対する特効薬は見いだせず、現状を打開する効果的な方法も考えつかない。」

伝道に特効薬はないが、「現状を打開する効果的な方法も考えつかない」としたら、それは不信仰な者になるのではないか。御言葉を開く時、現状を打開する効果的な方法で満ちている。例えば、中風の人が癒される話がマルコによる福音書2章に出てくる。4人の男が、イエスが話をしている家の屋根をはがして、この中風の人を寝ているベットごとつり降ろした。イエスは「その人たちの信仰を見て」中風の人を癒した、と記されていた。その信仰とは、中風の人のために、覚悟を決めて行動したことである。他人の家の屋根をはがすなど、非常識も極まりない。家の人には大変な迷惑をかける。しかし、他人の目を気にしていたら、中風の人は癒されなかったであろう。その時、自分のできることを、その人のために勇気をもって行った。

果たして、私たちの信仰はどこにあるのか。誰かのために最善を尽くし、自ら行動することができたなら、そこにあるのは私たちの信仰ではないか。他人の目が気になると、言い訳をすることはできる。私たちはやらないための言い訳は沢山ある。しかし、そうやって言い訳をしていたら、いつまでたっても現状を打開する効果的な方法」は生まれない。一人の中風の人を主の下に連れて行くために、4人の男」が協力したように、皆で協力し合うことが、伝道の実を結ぶために何よりも必要である。