主の福音という福袋

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元旦の朝、アリオに行くと長蛇の列。「福袋」目当てに、開店前から多くの人が並んでいた。お目当ての福袋には、限りがあるのだろう。その様子を見て、教会にも福袋が用意されていることを世の中の人に伝えなければと思った。教会の福袋とは「主の福音」が入ったもので、人数も金額も制限がない。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」ヨハネの黙示録22:17と、誰でも求めれば、価なしに、ただで与えられる。しかし、教会では礼拝前から長蛇の列になることはない。

それは何故か?福袋の中に入っている「主の福音」の素晴らしさに気づかないからである。その中身には、「罪の赦し」が入っている。人が一番願っていることは、赦されることである。皆さんも、過去の犯した罪過ちに、良心の呵責を覚え、夜も眠れないという経験をすることがあるのではないか。罪の赦しは、時間が解決してくれるわけでも、お金が解決してくれるわけでもない。人には、罪の赦しを解決することはできない。しかし、神の独り子である主イエスは十字架にかかって、罪の赦しを解決してくださった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34と、十字架上で祈られた主は、見事に罪の赦しをもたらしてくださった。

福袋の中身にはもう一つ、「永遠の命」が入っている。この「永遠の命」は、不老不死のことではない。死んでも永遠に生きるという命である。主を信じる者には、この永遠の命が与えられるので、死は忌み嫌うものではなく、天国への凱旋の時となる。一休禅師は、「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と一句を詠みながら、正月ムードの京の町を練り歩いたという。「目を覚ましておけ。新年を祝うとは、死の近づきを祝っているという意味でもあるんだぞ。死はすぐそばにあるんだぞ。そのことを理解した上で、正月を祝うんだぞ。」そんな思いを込めた、一句だったのではないか。

自分の死は、遠い先のことと思っている人はいないか。しかし、死は確実に近づいている。自分が死んだらどうなるのか、そのことを今一度、立ち止まって考えてみると、人生に無くてはならぬものは多くはないことに気づく。天国には、何一つ地上に蓄えたものを持っていくことはできない。主の福音という福袋を頂いた者は、「あなたがたは地上に富を積んではならない。~富は、天に積みなさい。」マタイ6:19-20という主の言葉に従って生きることが求められている。毎週、礼拝で福音の福袋を頂くことによって、主の救いを確信し、安らか人生を歩み、また、安らかな死を迎えたい。