主がお入り用なのです

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主が十字架の道を歩まれた「受難週」を迎えた。この日、主はろばの子に乗ってエルサレムに入城された。主は王としてこの世に来られることを示すために、立派な名馬にまたがって入城することもできた。多くの人々はむしろそれを望んだであろう。しかし、主は「不恰好なろばの子に乗って」入城された。敵対者であるローマの兵隊達はその滑稽さをあざ笑ったに違いない。「ろばにまたがるドンキホーテ、イスラエルの王」と。しかしこのように入城することは、ゼカリヤ9:9が成就したことを意味した。これにより、自分は戦いをするこの世の王ではなく、平和と救いをもたらす「平和の君」であることを証しするために、もっとも貧弱なろばの子に乗られた。

主は弟子達に、「もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」マタイ21:3と言われた。主は弟子達にろばの子を使う理由を全く述べていない。ただ「主がお入用なのです」という一言で済ませている。弟子達には、ろばの子を連れてくる理由が全くわからなかった。しかし、彼らは主が必要とされているということで、主の言葉に従った。主が用いたもう時の合い言葉は、「主がお入り用なのです」であった。こう言えば持ち主も貸してくれることになった。「主がお入り用なのです」との言葉は、主から私達にも投げかけられている言葉である。

榎本保朗先生は、「ちいろば」牧師と呼ばれた。先生は、京都で開拓伝道をして教会と保育園を作られた。保育園で子供達に、主を乗せた子ろばの話をよくした。小さな子ろばは力もなく、見栄えもよくない。でも、子ろばの背にイエス様が乗って下さった。なんと嬉しいことか。「自分もイエス様を乗せる小さなろばになりたい、ちいろばになりたい」そう繰り返し語った。貧弱な、なんの取り柄もないような自分でも、イエス様がお乗り下さるならば、これほどの喜び、これほどの生き甲斐はない、と。

主に用いられる道がここにある。神は人間的に立派な者、力ある者をお用いになるのではない。貧しく弱い者をお用いになる。ですから、「主がお入り用なのです」との言葉に「ハイ」と答える者となりたい。人間的に見たら貧しい者だが、私達の身を主の御用のために捧げていきたい。現代は「御言葉の飢饉の時代」であるが故に、主はあなたの「ハイ」を待っておられる。あなたの祈り、あなたの奉仕、あなたの献げもの、あなたの愛、あなたの真実を主は待っておられる。主の体なる教会を建て上げるのに「主があなたをお入り用なのです」。私達も「ちいろば」になりたいものである。