一緒に主を見上げて歩む仲間

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感謝なことに、この地に会堂が建てられて17年が経った。1999年10月31日、この会堂で最初の礼拝を捧げた。折しも「宗教改革記念日」であった。今では町の人々にも大変知られるようになった。時折、タクシーの運転手さんが間違えて、他の教会に行かれる方をここに連れて来られることがある。立地条件の悪い旧会堂にはなかったことで、「三井住宅前」という交差点に会堂が建った効果は大きい。しかし、会堂が伝道するのではない。伝道するのは、主に救われた私達一人一人である。

教会とは建物のことではなくて、神に呼び集められた人々の群れである。使徒言行録2章には初代教会が誕生した時の様子が記されているが、御言葉を聞いた人々のうちに悔い改めが起こり、バプテスマを受けた人々によって礼拝が献げられた。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」使徒言行録2:42。御言葉に聴き、交わり、主の晩餐に与り、一緒に祈ることを大切にした。

この初代教会の姿勢は、上尾教会にも引き継がれている。信仰は、私と神との関係を大切にするが、しかし反面、一人で聖書を学び、一人で祈れば事足りるというものではない。それでは独断的な信仰になっていく。信仰は、信仰の仲間と一緒に生きる時に成長する。分級や礼拝や祈祷会で御言葉を一緒に聴き、聴いた御言葉を分かち合うことによって、相互の交わりが深まり、具体的に祈り合うことができる。

まさに信徒同士の「相互牧会」が生まれている。御言葉や祈りに導かれて、お互いに支え合う具体的な関係へと押し出されていく。高齢化が進む中で、施設に入る方や長期入院される方、又、一人暮らしを余儀なくされる方が増えて行く中で、教会では執り成しの祈りと共に、その方の所へ主の慰めを携えて出かけて行くことが求められている。主が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」マタイ18:20と言われたように、教会はどこにでも存在している。

神は呼び集めた人々を、「キリストの体」の一部分として置き、他の部分と互いに助け合うようにされた。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」Ⅰコリント12:26。喜びも悲しも楽しみも苦しみも分かち合うのが、信仰であり、教会である。その信仰を豊かに育んでいくためには、「相互の交わり」を大切にしたい。そして、人に喜ばれることを求めず、神に喜ばれることを求めて、一緒に主を見上げて歩む仲間として歩んでいきたい。