どんな人間に育てたいのか

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子どもを育てる責任は、家庭と教会にある。「どんな人間に育てたいのか」これがはっきりしていることが子どもを育てる上で一番重要なことである。戦前の教育は、「お国に役立つ人間になれ」として、それが歪んで軍国主義の恐ろしい教育に走っていった。戦後はその反動ともいえる、「自分のために」という利己主義だけが大手を振るっている傾向にある。教育基本法は、「世界の平和と人類の福祉のために」という立派な理念を掲げているが、残念ながら、ほど遠いのが現実である。むしろ、多くの家庭での教育理念は何かといえば、よい学校に進学して、よい企業に就職して、よい収入を得る人間になることではないか。このような経済第一主義が、競争社会を生み出し、子どもたちの心を蝕んでいることに、私たち大人は気づかなければならない。

「どんな人間に育てたいのか」この問題を、家庭で、教会で真剣に話し合わなければならない。「神を愛し、隣人を愛しなさい」という立派な標語を掲げたとしても、隣人とげんかをしているようでは、話にならない。具体的に、神を愛し、隣人を愛する心を育てること、愛することのできる人間になること、これを自ら実践することである。「学びとはまねび(まねをすること)である」と、よく言われる。子どもは、良い事も悪い事も、親や周りにいる人に倣っていく。だから、自分が子どもに何を蒔いているか問われる。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」ガラテヤ6:7-8。

ユダヤにおいて、神を愛し、隣人を愛する心を持った子どもを育てるために、読み書きができる5歳になれば、父親は子どもに聖書の主要聖句、特にイスラエル民族の信仰の中心とされるシェマー(申命記6:4-9)、その他が暗誦できるように教育した。そして、7歳に達した子どもは最寄りの会堂(シナゴーグ)附設の初等学校に通うことが義務づけられた。そこでは、徹底的に旧約聖書全体を学び、主の戒めに従うことを訓練された。当時の教育がいかに徹底したものであったかは、12歳のイエスが、神殿で律法学者たちと対等に議論した記事によってもうなずける。イエスの人格形成は、以上のような伝統的ユダヤ教育の成果であるといえる。そして、それが今日までユダヤ人の「教育の民」としての伝統として継承されている。私たちも上尾教会の今年度の聖句、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいを子育ての中で実践していきたい。